Friday, January 21, 2011

複製芸術とアウラ

twitterで複製芸術とアウラ、そしてアウラの成立条件についての議論があったので、少し考えたことをメモします。
http://twitter.com/#!/search?q=%23popuon
(坂本龍一に佐々木さんの学生がインタビューしたことが発端のようだ)
議題は:現代において、アウラとは何か?

言うまでもなく、ベンヤミン以前にも絵画の模写や贋作といった複製芸術は存在した。しかしそれらの複製芸術とオリジナルとの間には、何らかの差異が存在する。したがってオリジナルによって得られる体験は、そのオリジナルがもつ時空間を共有する必要がある。そして、人は鑑賞する対象がオリジナルであるという、その事実性の中に、その体験の貴重さがあると感じる。その貴重さの実感こそ、アウラが名指すところのものである。

そのうえで、レコードや写真による表現形態が発生した、ベンヤミンにとっての現代以降、そのオリジナルのオリジナル性が崩壊する。アナログとデジタルとの間に、表現されたものとしての質に断絶があるかどうかは議論があるだろうが、それはまた別の議論であるのでここでは単純に精度の問題であるものとしよう。そうであれば、例えばアナログレコードの表面についた傷によって、そのレコード盤固有のノイズが付着したからと言って、それ固有の体験が発生することは、ここでは問題にはならない。(もちろん恣意的な「聴き方」をすればそのようにとらえることは可能だが、「オリジナル」のアウラを獲得した訳ではない。あり得るとすれば、複製としてのアウラを獲得したのだ。)ともあれ、CDやラジオ、そしてもちろんUSTREAMによって配信される動画がいずれもオリジナルから複製されたデータ(シミュラークル)にすぎないことは自明だ。そして複製されることを前提としてエディットされた作品にはオリジナルは存在しない。そこには少なくともベンヤミンが用いた意味でのアウラは剥離されている。(たしかに教授が指摘する通り、たとえばUSTREAMを見逃したらもう見れない、といった体験の1回性というものもあり、それ自体について検討することも必要だろうが、ここではこれ以上深入りすることはしない。)

しかし、ここでの議論でタイムライン上を流れているメッセージを見るに、ベンヤミンのアウラとは別種の体験の貴重さが、リアリティとして問われているようだ。質問者からは「お金を払う」という行為に重要性を置く見方が表明されたが、ある物や体験に対して対価を払うということは、自分の(労働)時間を支払うということだ。自分の身を削って手に入れた物に対して、より大きなアウラを見る。私がこれだけの時間をあなたに対してかけたのだから、それだけ私のために奉仕してほしい。つまりはナルシシズムだ。そして、恋愛としての音楽。思想地図β vol.1の鼎談(菊地成孔、渋谷慶一郎、佐々木敦)の中で菊地さんが日本での恋愛至上主義を批判していたことが思い出される。

結局月並みな結論しか導きだせていないが、やはり(われわれの)現代において、特にソーシャルネットワークの広がった状況に親しんでいる世代からは、自分の行為が何らかの社会的なリアクションを引き起こすことに、リアリティを感じる感性が強いのだろう。ライブ、特にいわゆる野外フェスなどに多くの若者が集うのも、この連帯のリアリティを求めてのことのはずだ。つまり、自分が好きなアーティストが、多くの他の人に受け入れられていることを感じることの強度。

このような状況のなかで、作品そのものについてのまなざしを鍛えていくこと。その方法は、これからまた考えなければいけないだろうとおもう。


P.S.
ちなみに、若者批判をしているつもりはありません。
あと、所有ということについても検討が必要かもしれない。