東京都現代美術館で行われている池田亮二展に行ってきた。
東京都現代美術館の広い地上の1フロアと地下の1フロアを、それぞれ事実上1つのインスタレーションのみで構成するという(その他にも幾つか作品はある)非常に大胆な構成をとっていて、またそれが成功していた。特に地上のフロアで展示されている"data.matrix"と"data.tron"は圧巻。この二つは同じ空間での展示であり、またそれぞれが音と時間を同期しているため、事実上一つの作品と考えてよい。"data.matrix"は直方体状のオブジェクトに格納されたプロジェクターを10並べ、それぞれが壁に映像を投影する作品だ。それぞれの映像は"data"を可視化したしたものであることがわかる。3次元空間に点や数値をプロットしたものであったり、UNIXでファイルを一覧した時に表示されるような画面であったりするものが、それぞれは高速に、あるいはゆっくりと変化している。またプロジェクターを格納した直方体にはスピーカーも格納されており、そこからサインウェーブやクリックノイズが発されている。
また"data.tron"は"data.matrix"が投影されているのとは別の、入場する方向とは逆向きの壁に3つのプロジェクターを使って投影されている。投影されているものは"data.matrix"と同じテイストのものだ。
それが、ある瞬間に発せられるパルスによって一度に暗転し、すべての映像が同期して動き出す。縦、あるいは横に同期をとった動きを一定時間継続した後に、もう一度パルスが鳴り響くと、一転して白黒の非常に細かな数値の列が画面上を覆い尽くす。それぞれの数値は横方向にスクロールしたり、停止したりを繰り返す。画面いっぱいに広がった数値は遠目にはホワイトノイズにしか見えない。
この状態が暫く続いた後に、暗転して、一つのサイクルが終わる。
この作品の意図するところは、名前にも現れているとおり「データ」という存在である。データとは現代的にはほぼコンピュータで計算可能な情報のことをさしている。そして改めて確認するまでもなく、コンピュータで計算可能なデータは0/1に量子化されたデジタルデータだ。複雑な構造をもつデータもすべてはこの極限的に細かな単位にまで還元することができる。そしてコンピュータで扱うことのできる音や画像の構成の最小単位は一つの周波数、一つのピクセル等であり、これらを用いてそのデータの構造を可視化し、可聴化していくことが今回のインスタレーションの、敷いては池田亮二という作家が制作してきた作品の大きなテーマである。そしてそれらの構築された作品が、最終的にホワイトノイズのような数値の海に飲み込まれるところで、ほとんどカタルシスのようなものを感じることができる。さて、このカタルシスはどういった性質のものなのか。これについてはもう少し考える必要があるかもしれない。僕はこのホワイトノイズにすべての画面がおおわれたところでとても感動したが、池田亮二のごときモダニズムの作家がこのカタルシスを用意していたのかどうか。性急には判断できない。