Thursday, May 02, 2019
アラザル vol.12
私は前号に引き続き詩を寄稿しました。実はアラザルは批評誌なので作品ではなく批評文を載せるべき、と過去に内部で強く主張したことがあり、自分で作品然としたものを連続で寄稿することになり若干の後ろめたさがあるのですが、とはいえ批評性のない作品はない、と言うかどうしても入り込んでしまうものですし、アラザルに載せることを想定して書いているものではあるので、批評として読まれる可能性も--著者としては--残っていると信じています。
他のメンバーの原稿は現時点で未読であるため個人的な期待で言えば、三上良太のクセナキス論はこれまで圧倒的にすごかったので今回もヤバイでしょう。前号までと同様、一次資料に当たるために語学から勉強する異常なまでの熱量を持って徹底的に調査された、おそらく日本語ではここでしか読めないテクストであることは間違いないと思われます。
他にも数号前から書く書くと宣言していてようやくの掲載となった西田博至のドゥニ・ヴィルヌーヴ論や「左隣のラスプーチン」主宰の安倉儀たたたによる寄稿(最初の数ページをみたらチャーリー・パーカーの話だったが、ここからタイトル《キラッとプリ☆チャンを信じろ》にある少女アニメに接続されるのだろうか)など、力作(と思われる)原稿が目白押し。
以下、目次。
《「重症心身障害児(者)」と「芸術」の臨界点》堤拓哉
《キラッとプリ☆チャンを信じろ》安倉儀たたた
《夜明け》杉森大輔
《壁の中の最後のダンス ドゥニ・ヴィルヌーヴ論》西田博至
【連載:ラッパー宣言】第6回《無記名の川》安東三
《『スパイダーマン:スパイダーバース』と“大いなる誤算”》山下望
【連載:音と音楽と時間】第6回《『Never Too Late But Always Too Early.』》諸根陽介
《ロンドンに雨は降らなかった。を、前提としたファントム・スレッド覚書》dhmo from TAP LAB
《Have One on Me》serico
《《メタスタシス》前夜 クセナキスの習作時代 (2)ル・コルビュジエ時代:難民からエンジニアへ》三上良太
文学フリマ、ぜひご来場下さい。
Tuesday, November 13, 2012
アラザル vol.8
アラザルvol.8、完成しました!
2012/11/18(日)、第十五回文学フリマで初売りです。ブースはオ-33。
僕は「芸術/音楽、そして世界と主体」というタイトルで書きました。1回では書ききれなかったので、初の連載になりました。音楽論/即興論のようなものを書こうと思っているのですが、今回はまだ前フリ段階。ほとんど音楽以前の芸術論のようなものを書いています。
またいくつかの書店での販売もありますので、追って連絡します。
Saturday, May 05, 2012
アラザル vol.7
アラザル vol.7が完成しました。来る第14回文学フリマで初売りです。
僕はまた音楽、特に弱音系の作品について書いています。多分読み易いと思いますので、ぜひ。タイトルは『多摩川の日暮れに鳥たちの歌が青く染まるのを聴く』です。
アラザルメンバーによる論考の他、現代音楽の作曲家である鈴木治行氏と、ラッパーグループ・パブリック娘。のインタビューを掲載しています。
文学フリマの会場は流通センターの「第二展示場(E・Fホール)」です。アクセスの詳細はこちら。会場内のブースは 「オ-38」です。
Tuesday, January 31, 2012
"Toy Room" from Chick Corea / The Song of Singing
Chick Corea / The Song of Singing
Chick Corea(p) Dave Holland(b) Barry Altschul(ds)1970, BlueNote
ジャズ、こと65年あたりのモードジャズが一通りやり尽くされてフリーやらエレクトリックやらが実験されるようになる時期、アルバム全体はそこまで成功しているとは思えないものの、その中の一曲が一際輝きを放っている例がいくつかあるように思う。
チック・コリアがBlueNoteに1970年に録音した『The Song of Singing』もそういったアルバムのひとつであり、そして冒頭に収録されている『Toy Room』という曲がその輝きを放っている曲ということになる。最近CDを整理していて久しぶりに聴いてみたのだが、やはりこの『Toy Room』が美しいのでそれ以来何度か聴き返している。
1970年と言うと、チックはアンソニー・ブラクストンとのCircleというバンドを結成し、いくつかのアルバムを発表している。これはいわゆる前衛派であるブラクストンとのコラボレーションであり、大きくフリーに触れた内容らしいが、これはかなりの失敗作というのが世間の評判。僕は残念ながら未聴だが、チックとブラクストンという(今思うと)異色の組み合わせには興味をそそられる。
本作『The Song of Singing』もそういった当時のチックの問題意識を反映して、研ぎすまされた空気感を漂わせる演奏が続くが、少しフォーカスが絞れていないと言うか、聞き所が少ない印象がある。
しかし冒頭に収められているデイヴ・ホランド作の『Toy Room』は、まさにトイピアノで演奏しているかのように軽さのあるタッチとリズムで演奏される短いテーマと、断片的なフレーズと和音を飛散させていくようなアドリブがなかなか絶妙で、この1曲のためにこのアルバムを買ってよかったと思わせるに足りる。
ただし。本作の数年前に発表している『Now He Sings Now He Sobs』のほうは全編充実した内容であるから、もしこちらを未聴の場合はこちらから聴くのが正解。
Monday, March 07, 2011
Apple, Google, Facebook
ところで、このApple対Androidの図式は、基本的にFacebook対Googleの図式と符合する。GoogleがWebのなかでオープンネスを推進することにその企業生命をかけていることに異論はなかろうが、このオープンネス、つまりどこからでものぞき見られてしまう広大な空間の中に、外界から隔離され、信頼関係の範囲に限定したゾーニング空間(これはショッピングモールともつながるだろう)を構築した起業こそがFacebookである。もちろん日本におけるmixiなど、Facebookの以前からこのような閉鎖空間は作られてきたが、彼らほどの規模を実現した例はない。こちらのFacebookとGoogleの戦いは、少なくとも短期的にはFacebookの方に分があることは誰しもが感じるところだろう。これはこれまでのGoogleの検索を中心とした情報の流れが、<発信者-Google-受信者>という、出所と受け取り手が明確な関係から、ソーシャルグラフを介したユーザー相互のバケツリレー方式で網の目上に広がっていく、SNS以後の新しいフェーズに移行したことを表しているだろう。このようなネットワークが広がるためには、プラットフォーム自体への信頼と依存が欠かせないが、Webという視点で言うと、この信頼感の獲得競争において、FacebookおよびTwitterが現時点での圧倒的な成功者であることは言うまでもないだろうし、そしてもちろんデバイスという面では、Appleが明らかに先行している。
もちろん、スティーブ・ジョブズのいう統合対分断(Integration vs Fragmentation)という対立軸は、今後も残り、そして時勢によって優劣は揺れ動くだろう。(文脈を外れたら、どちらが望ましいことなのか判断できないだろう。これはそっくりModern vs Post-Modernと読みかえられる。) 少なくとも00年代はGoogleのオープン性が一人勝ちをしていたが、現在はApple/Facebookが勝ち組だ。そして今後の展開は、ソーシャルメディア上を流れる、(動物化した)個々人の欲動が、群としてどのように動いていくかにかかっており、そしてこのなんとも不気味な怪物(サマーウォーズのラブマシーンとは、この怪物のことだろう)の行く末を予見するのは、容易なことではない。
Saturday, June 13, 2009
Lee Konitz, Don Friedman & Attila Zoller / Thingin

・この前渋谷で買ったLee Konitz, Don Friedman & Attila Zoller / Thingin (hatOLOGY 547)を聴く。2000年の録音である。ちなみに、このリー・コニッツという人はモダンジャズでも50年代から活躍している、つまりチャーリー・パーカーなんかと同時代の人であるんであって、未だ活躍をしているのには恐れ入ります。この作品はアルト、ピアノ、ギターのトリオ。50年代からコニッツはギターとのデュオで信じられないような名演を残しているけれども、ここでも自分のソロの時にはピアノを抜いてギターとのデュオで演奏している箇所があって、やはりすばらしいです。まあ、やっぱりかつてのクールネス全開で切れまくっていた録音ほどのひりひりした緊張感は無いかもしれないけど、一時代を築いてきた人だけが放つことができるオーラがあります。あとこのアルバムで発見だったのは、ドン・フリードマン。不勉強のため、彼は名盤「サークル・ワルツ」でしか知らなかったけど、その後も活動を続けていたんですねえ。ジャケットを見るとやはり相当にお年を召されていらっしゃるが、タッチも指さばきもシャープで、むしろ瑞々しい。
このアルバム、実はこれを書いている時点でまだ最初の2曲しか聞いていないんで、これから後の方の曲も聴きます。
Saturday, May 09, 2009
日記 2009/05/09
・GWはほとんど家にいて、幾つか本を読んだ。といっても読むのが遅いのでほんの数冊ですけど。
・その中ではまず桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が面白かった。不勉強ながら僕にはこれが初の桜庭作品。とても切ない青春小説。最後にカタルシスが襲うあたり、ある意味ヘッセとかに近いものがある。ライトノベル作家として活躍していた頃の作品だと思うのだが、十分文学的と言えるのではないか。何をもって文学的か、ということは今全く考えていないものの。さっき『赤×ピンク』も読んだが、どちらもモナトリアムを乗り越えるための条件と、それを阻害するようなトラウマをテーマにするような作品で、まあそういう意味ではやっぱり中高生、つまりライトノベルの読者に読まれるべき小説ではあるのだろうな、と感じる。でも、そのモナトリアムという閉じた世界から、その外側にある社会的な世界という一つ大きな世界へと視界が広がる瞬間に、一つメタへの視点の移行があり、その辺りの雰囲気がもしかしたらとても今日的なのかもしれない。『砂糖菓子〜』だとそれは兄の存在だろうし、『赤×ピンク』では「八角形(オクタゴン)」がそれに当たるだろう。

・もう一つライトノベル的な作品として、米澤穂信『春季限定いちごタルト事件』を読む。米澤穂信も初めて読む。というか、BRAINZで佐々木さんが紹介していたのが気になったので読んでみた。いわゆる「日常の謎」を書くミステリ作家らしく、だからもちろん人が死んだりすることはない。少なくとも今のところ(この作品はシリーズ第一作)。しかしこの作品は(これも佐々木さんから事前に聞いていたことだが)、主人公が探偵なのだが、その探偵であること自体に疑問というか、不自然さを感じており、普通の人=「小市民」になろうとしていて、このあたりがそもそもミステリというジャンル性に対する懐疑につながっていて、軽快な文体とそのメタミステリ的な構造の面白さにかなり夢中になって読みました。
Tuesday, May 05, 2009
池田亮二展

東京都現代美術館で行われている池田亮二展に行ってきた。
東京都現代美術館の広い地上の1フロアと地下の1フロアを、それぞれ事実上1つのインスタレーションのみで構成するという(その他にも幾つか作品はある)非常に大胆な構成をとっていて、またそれが成功していた。特に地上のフロアで展示されている"data.matrix"と"data.tron"は圧巻。この二つは同じ空間での展示であり、またそれぞれが音と時間を同期しているため、事実上一つの作品と考えてよい。"data.matrix"は直方体状のオブジェクトに格納されたプロジェクターを10並べ、それぞれが壁に映像を投影する作品だ。それぞれの映像は"data"を可視化したしたものであることがわかる。3次元空間に点や数値をプロットしたものであったり、UNIXでファイルを一覧した時に表示されるような画面であったりするものが、それぞれは高速に、あるいはゆっくりと変化している。またプロジェクターを格納した直方体にはスピーカーも格納されており、そこからサインウェーブやクリックノイズが発されている。
また"data.tron"は"data.matrix"が投影されているのとは別の、入場する方向とは逆向きの壁に3つのプロジェクターを使って投影されている。投影されているものは"data.matrix"と同じテイストのものだ。
それが、ある瞬間に発せられるパルスによって一度に暗転し、すべての映像が同期して動き出す。縦、あるいは横に同期をとった動きを一定時間継続した後に、もう一度パルスが鳴り響くと、一転して白黒の非常に細かな数値の列が画面上を覆い尽くす。それぞれの数値は横方向にスクロールしたり、停止したりを繰り返す。画面いっぱいに広がった数値は遠目にはホワイトノイズにしか見えない。
この状態が暫く続いた後に、暗転して、一つのサイクルが終わる。
この作品の意図するところは、名前にも現れているとおり「データ」という存在である。データとは現代的にはほぼコンピュータで計算可能な情報のことをさしている。そして改めて確認するまでもなく、コンピュータで計算可能なデータは0/1に量子化されたデジタルデータだ。複雑な構造をもつデータもすべてはこの極限的に細かな単位にまで還元することができる。そしてコンピュータで扱うことのできる音や画像の構成の最小単位は一つの周波数、一つのピクセル等であり、これらを用いてそのデータの構造を可視化し、可聴化していくことが今回のインスタレーションの、敷いては池田亮二という作家が制作してきた作品の大きなテーマである。そしてそれらの構築された作品が、最終的にホワイトノイズのような数値の海に飲み込まれるところで、ほとんどカタルシスのようなものを感じることができる。さて、このカタルシスはどういった性質のものなのか。これについてはもう少し考える必要があるかもしれない。僕はこのホワイトノイズにすべての画面がおおわれたところでとても感動したが、池田亮二のごときモダニズムの作家がこのカタルシスを用意していたのかどうか。性急には判断できない。
Wednesday, April 22, 2009
アラザル2
今回は何と400ページ超えの超大作。しかも大物文筆家へのインタビューが4本!買わない手は無い!
杉森は『おととことばのあわいに』というタイトルで、歌と言葉、歌唱と詩および朗読について、ジャック・デリダの『グラマトロジーについて』を読みながら書きました。
あと、インタビューでは円城塔さんに取材等しました。この記事は他では読むことのできないようなないようになってます。必読。
アラザル2、まずは5/10の文学フリマ、F-13<批評誌「アラザル」>ブースで先行発売です。
その後、主要書店に展開します。
価格は1000円。
http://gips.exblog.jp/10764777/
Wednesday, June 25, 2008
アルゴリズム図書館
バベルの図書館とは、(とりあえず全ての言語がアルファベットで記述されていると仮定し、)あらゆるアルファベットの組み合わせを用意した図書館があれば、これまでにあった著作はもとよりこれから書き起こされるであろう書物や、明日の競馬の結果などの記述もすべてその図書館から見つけ出すことができるというボルヘスの空想小説のことだ。そしてそのアルファベットというのをビット配列に読み替えればコンピューター上でバベルの図書館を再現することは理想的には可能であり、それが可能と成ったときにはその情報の洪水の中から如何にして有用な情報をマイニングするかが今後のコミュニケーション理論を考える上で重要と成るだろう、という論旨であった。
山本氏はインターネット上にバベルの図書館を用意することは、その記憶領域の確保の問題であると考えているようである。しかし任意のビット配列を取得するのであれば、じつは別段記憶領域等は必要ない。たとえば1という数字を記述した文書を必要とするときには、1桁のビット配列で、0から始めて2番目に得られる値を要求すれば良い。任意の長さの任意の文字列ということであれば、それこそその文字列の長さの分だけ、ランダムなビットパターンを返すよう要求すれば良く、またその要求に応えるプログラムなど(基本的には)数分もあれば作成可能だ。それぞれのデータに対して一意性が必要なのであれば、データの桁数と、先頭からの番号さえあたえれば全てのビット列を特定することも可能である。ただし、この場合取得可能なデータと要求するデータは全く同じ情報を持つことに注意が必要である。つまり「本日は晴天なり」という文書を要求するために、「「本日は晴天なり」という文書を送信せよ」と問い合わせなければならなくなる。これは彫刻は既に石の中にあり、あとはそれを取り出すだけでよ意図する主張と何ら変わるところは無く、このような主張はこれまでにいくらでも考えられてきたことだろう。もちろん山本氏はそのことを百も承知で、その冗長な情報の洪水の中から意味のある情報を体系づける仕組みを考えることが可能かもしれないと考えているのかもわからない。しかし繰り返すが、そのようなことはホワイトノイズの中からモーツァルトの音楽を取り出すことができると言っていることと同じで、ほとんど意味がない。
電子計算機という、アルゴリズムによって駆動し、データを出力することが可能な機械は、このように意味と無意味を際限なく作り出すことができる。結局その意味を作り出す論理の構造を改めて問い直す作業は現時点で可能であるかもしれないが、その作業が不毛であるであろうことだけはゲーデルによって証明されてしまっている。そういったことを先延ばしにしつつ、無意味を無意味のまま、意味に回収されない形で戯れさせること。あるいはそのような試みこそが現代において求められているのかもしれず、いくつかの心当たりは諸兄の中にもあろう。
Friday, May 30, 2008
Self-Reference TEXT
今は青土社現代思想ガイドブックシリーズの「スチュアート・ホール」を読んでいる。スチュアート・ホールはカルチュラル・スタディーズの創始者の一人に数えられるイギリスのいわゆるニューレフトの知識人だ。このシリーズでは他にジャック・デリダの解説書を読んだことがあるのだが、その本は非常に面白かった。ただデリダの思想について解説を加えるだけではない、デリダ的エクリチュールの実践としてのテクストが展開されていて、非常に本として読み応えがある刺激的なものだった。これまでのところ「スチュアート・ホール」についての本書がデリダ本ほどのインパクトを持っているようには感じられないが、ふと、ある人の解説本を読むということは、一体どういうことなのかが気になった。
そもそもデリダならデリダの思想について知ろうというとき、解説本を読むくらいなら原典を当たれという至極真っ当な意見を見聞きすることがある。当然それはそうなのだろうが、やはり難解な思想家なり何なりについてまずとっかかりでも掴んでみたいというのも無理からぬことだろう。しかし、なぜ原典より解説本のほうが解り易いのか。解説本はあくまで解説を施している対象の著者なり著述なりについて二次的に記述=翻訳されたものであるはずで、であるとすればもっとも理解に易いのは原典の方であるはずだろう。もちろん言葉遣いのような技術的なレベルで分かりやすさを上げることも可能だろうが、しかしそれ以前に原典はそれ自身が自己の内容についての説明を行っている訳ではないという、自明な事実にその非容易性の多くを負っているはずだ。我々が著述を行うとき、どんな記述であっても(それは思想や文学といった人文系の書物に限らず、科学技術のプログラムや音楽の譜面についても同様だろう)、その記述=エクリチュールはそれ自身について記述することはできない。今まさに生成されつつあるこの文章についての解説は、別のテクストにゆだねるほか無い。この自己への限りない到達不可能性によって、こと思想というその自己正当性を保証することを求められる形式のテクストは、その読解を他者へとゆだねざるを得ないのではないか。そしてその読解の多様性をこそ現代の思想は考えてきたはずである。
この自己への言及/到達不可能性については、円城塔『Self-Reference ENGINE』で改めて考えさせられた。この作品、読了したが、本当に刺激的で、そのうち少しはまとめてコメントしてみたいところだ。
Monday, May 05, 2008
クラリネット音楽祭
20/21 - Boulez: Repons, Dialogue De L'Ombre Double / Boulez, Ensemble InterContemporain

1曲目の「repons(レポン)」が有名だが、2曲目のクラリネット曲「Dialogue De L'Ombre Double」も良い。IRCAMというフランスにある現代音楽における電子音楽の総本山で、所長のピエール・ブーレーズの曲を本人が指揮するという(Dialogue De L'Ombre Doubleは独奏曲)、サラブレットな録音。1曲目の演奏はEnsemble InterContemporainというこれまたサラブレットたち。肝心の2曲目のクラリネット曲は、本来なら前後左右合計7カ所に設置されたスピーカーを使って、目の前で演奏されているクラリネットの音をリアルタイムに音響処理し、聴衆の周りをそのクラリネットの音が駆け巡るような感じ、であると思われるのだが、CDに録音されているのはステレオ2chのみなのでその全貌を再現することはできない。ただ、様々な音域でのトリルを繰り返しながら音の定位を次々とかえていく様はスリリングで、しかも音自体がとても良い。作曲された85年という時代性も考えると、(当時)相当高性能なコンピューターを使用していたことが伺える。
このアルバムは名盤なので、機会があれば是非聞いてみるべき。
Stockhausen: Bass Clarinet & Piano

シュトゥックハウゼンのピアノとバスクラリネットのソロとデュオを集めたアルバム。所々にコンピューターによる音響処理も入っており、それがさりげなく良い。特に一曲目のピアノソロは断続的に続く和音の連打に、コンピューターの音響がまとわりついて来るその響きがとてもスタイリッシュ。6曲目以降に収録されているデュエット曲「TIERKREIS」は、彼の作曲作品の中では旋律がはっきりしていて取っ付き易い作品だ。冒頭などは「展覧会の絵」のようである。また途中でトイピアノなども使われている。トイピアノがはいるととたんにジョン・ケージっぽくなる。最後あたりで一瞬感動的なメロディをバスクラがグロウ気味に吹いたり、あるいはパーカッシヴなあの奏法(呼称がわかりません)をするあたりなどはデビッド・マレイとか、フリージャズ系の香りも。何にせよ、かなり聞き易い作品であるし、シュトゥックハウゼンの入門には向かないかもしれないが、しかしもしかしたら現代音楽の入門にはなるかも?まあ僕自身がまだ現代音楽に入門したとは言えませんけれども。
Tashi / メシアン:世の終わりのための四重奏曲

タッシの名盤。タッシはこの曲を演奏するために結成された現代音楽カルテットで、ヴァイオリン、クラリネット、ピアノ、チェロという不規則な編成をとる。アルバムのライナーにあるメシアン自身の解説を読むと相当にキテレツであり、例えば「ピアノはブルー= オレンジの和音でカデンツを奏し、そのはるかかなたのカリヨンの響きでヴァイオリンとチェロの単旋聖歌ふうのレチタティーヴォを囲む。」といった具合。メシアンは相当に神秘主義的な作曲家であり、解説を読んでいるとかなりスピノザ的な感じを受ける。この曲ではクラリネットは中心という訳ではないが、第三楽章「鳥たちの深淵」などはクラリネットソロである。この楽章では様々な音高でのトリルが特徴的。メシアンは鳥の鳴き声を採譜することに執着したことで有名だが、昔から木管楽器(主にフルートが多いが)のトリルは鳥の鳴き声を表すことが多い。特にクラリネットという楽器は木の管に開いた穴を直接指で押さえるという非常に構造的にシンプルな部分があり(しかし両小指に割り当てられたキーは異常に多いのだが)、このような構造を持った木管楽器は今ではリコーダー類とピッコロくらいしか思いつかないが、そのクラリネットのトリルは木の穴を押さえ、離すというフィジカルな運動、木と指の接続/離散の過程がそのまま発音に結びついているため、その運動性を音色として楽しむことができる。クラリネットに於ける鳥の鳴き声の表現ということではエリック・ドルフィーが思い浮かぶが、どちらかというと彼の場合はやはりフルートの演奏の方がより小鳥のような飛翔感がある。本作ではそのようなトリルを含めたクラリネットの旋律が、鳥の歌声の旋律をなぞっていることが非常に良く現れているので、注意して聴いてみると面白いだろう。その他、クラリネットを中心にせずとも非常にすばらしい楽曲であり、チェロとピアノのデュオなど、優美で官能的とも言えるような美しい旋律を聴くことができる。
Friday, May 02, 2008
3月の思い出
『アレコ』/『新作・世界初演』/『毛皮のヴィーナス』

佐々木敦のブログで知った、ベルギーのダンスデュオ。音楽をクリスチャン・フェネスが担当していた。
非常にすばらしいダンスで、驚き、感動した。特に冒頭の『毛皮のヴィーナス』がすばらしかった。女性のソロ作品で、最初ダンサーは毛皮をかぶり、グロテスクな未知の生物のような動きをしている。両手がまるで砂の惑星に出て来る大ミミズのようであり、それぞれがお互いに噛み付きあう。そのような非・人間から、女性が、のたうちながら生まれて来る。しかもその女性は両の足を大きく開き、股間をまっすぐ客席の方に向ける形で生まれて来る。ここで、生まれて来る女性=産む女性というような生産の循環構造のようなものが示されていたように感じた。
また、最後のデュエット『アレコ』もすばらしかった。特に男性が女性を殺してしまってから、男性が女性に噛み付きながら(カニバリズム)踊るシーンは白眉で、ちょっと前のことなので記憶が相当に合間なのだが音楽はなっていなかったように思う。少なくとも僕の記憶の中ではそうで、その無音状態の中で二人のダンサー、愛すべき人を殺した男と、死んだ女が、舞台の上で絡み合う様に、しかし悲劇的に舞う様子には落涙しそうになるほどの強度があった。
知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展

東京都写真美術館で行われている「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」。すばらしい。かなりの部分が白と黒に塗りつぶされる独特の印刷技術で、生と死を捕まえ、フィルムに定着させている。この展示については「アラザル」の原稿でも触れているので、そちらを参照いただきたい。展示は2008/5/6まで。
公式のサイトで、作品が閲覧可能。
シュルレアリスムと写真 痙攣する美

ジャコメッリ展と同時開催しているシュルレアリスム写真展。ジャコメッリがすばらしかっただけに、ちょっと印象が薄い。冒頭の夜の町の写真と、最後に展示されている昆虫や植物の超至近距離からの接写など、気に入った作品も多くあった。
ジャック・リベット監督「美しき諍い女」

ジャック・リベット特集、日仏学院にて。うーん、ちょっと難しいなぁ。映画は難しいです。面白かったですけど、ちょっとコメントできるほどわからなかった。という感じ。
ペドロ・コスタ監督「骨」他

ペドロ・コスタ特集、アテネ・フランセにて。陰鬱な世界をそのまま写し取り、その映像の美しさ、黒の存在感、録音された音に対する感性など、多くの優れた才能には恐れ入る。
ルノワール+ルノワール展

画家の方のルノワールを中心に見た。さすがに巨匠だけあってすばらしく、やはり言われているように光の表現が見事。映画監督のジャン・ルノワールについては、不勉強で映画を見たことが無い。ただ、広告にも使われている若い女性がブランコを漕ぐシーンは、きわめて短い映像のみが繰り返されていただけだが、その映像詩的な美しさは感動的だった。
モディリアーニ展

プリミティブ・アートに傾倒した時期(それ以前も)を含む、画家としてのモディリアーニを紹介し尽くすような展示で、充実していた。年代順に並べただけかもしれないが、モディリアーニの興味の在処と、プリミティブアートが実際に彼の後期(といっても30代だが)の作品でどのように機能しているかがわかって、構成も良かったと思う。背景や衣服などが描かれている箇所のテクスチャーの平坦さと、顔の陰影のバランスなどが気に入った。
アーティスト・ファイル 2008―現代の作家たち

好きな作家とそうでもない作家とがやはりいた。特に良かったのは、エリナ・ブロテルス、佐伯洋江、さわひらき。エリナ・ブロテルスについてはジャコメッリと同様「アラザル」で書いたので、ここでは割愛。このサイトで作品が見れる。佐伯洋江はシャープペンをつかった異常に細かい線で構成され、洗練された日本的な絵画を制作していた。さわひらきは6つの壁にプロジェクターで映像を投影するインスタレーションを展示。それぞれの映像はきわめて緩慢に変化していく。その変化の時間性がテーマとなっていたように思う。全体として非常に美しい作品だった。
以上、一度に書くと疲れる・・・
ループラインコンピューターミュージックフェスティバル
loop-line computer music festival
Klaus Filip(lloopp) 石川高(笙) duo
noid(cello) 中村としまる(no-input mixing board) duo
杉本拓(metronomes) 宇波拓(lloopp, mortors) duo
再三宇波氏自身も言及していたが、コンピューターミュージックフィスティバルを銘打って、コンピューターは宇波拓とクラウス・フィリップの二人しかいない。noidと中村としまるのデュオでは全くコンピューター奏者無しという、なんだかなあな企画であった。
ただ、それぞれの演奏についてはさすがにすばらしい。以下、それぞれのデュオ演奏について。
杉本/宇波の両拓の演奏は、やはり時間をいかに区切り、再構成するのかが問題になっていたように思う。杉本拓のメトロノームっていうのは聴いたことが無く、いったい何をするかと思っていたが、電子メトロノームを複数持ち、テンポをずらして再生するなど、なんだかほとんどスティーヴ・ライヒのような演奏をしていた。宇波拓はコンピューターを使ってはいるものの、そのコンピューターはスピーカーには接続されておらず、オーディオのアウトプットがアンプを通して小型モーターに接続されており、そのモーターに取り付けられた六角レンチ(ってわかる?5センチくらいのL字型した工具のことです)が小刻みに振動し、そのレンチが机を叩いて乾いた音を立てるという、ほとんど気違いじみた演奏を行っていた。とはいえ、このようなおかしな演奏はONJOでも披露されているだけに、ONJOファン的にはむしろ驚きは少ないのかもしれない。カタカタカタカタ、ぴっぴっぴっぴっ。こう書くと楽しげではある。それを難しい顔をして演奏し、こちらも難しい顔をして聴いているのであるから、ちょっとブラックユーモア的であったかもしれない。
noidと中村としまるのデュオは、いわゆる音響的即興という文脈から見ると、一番的確にそれに当てはまるような演奏だった。ただ、一時のそれと比べると、中村の演奏などは相当に大きな音量も用いており、より演奏がダイナミックになっている。noidはこのライブで初めて演奏を聴いたが、チェロを様々な奏法(とは呼べないような奏法も含む)で操る、まさに音響的即興を行う音楽家だった。日本で言えば秋山徹次の演奏などに近いだろうか。といっても秋山氏の演奏には相当には幅があってどの演奏のことかわからないかもしれないが。中村氏の演奏はとても良かったと思う。ただnoidの演奏は、ちょっとギリギリ僕の理解の外にあったような気がする。悪い印象は全くない。しかし終演後にミュージシャンなどからnoidへ、「とても良かった」というような反応があったが、そこまで反応するほど、僕にはそのすばらしさが伝わらなかった。このわからなさっていったいなんなんだろう。特にこういうポピュラリティの無い音楽について、どの演奏が良くてどれは良くない、という線引きは本当に難しいと思う。
最後にクラウス・フィリップと石川高のデュオ。これはもう文句無くすばらしかった。そもそも僕は笙の音色および演奏が好きなので、そのバイアスが相当かかっている。しかしそれを差し引いてもすばらしい演奏だったのでは無いだろうか。上へ上へと昇っていくような、いや、上から降り注ぐようなといったほうが良いのか、笙の音色が形成する音響と、サインウェイヴを基調とするクラウスのコンピューターから発せられる、繊細にコントロールされた音量と音色の電子音響。それぞれが響きあい、相互浸透する中で、様々に変化するモアレと、それとは無関係に発展していくそれぞれのプレーヤーの演奏。いや、感嘆しました。
ところで、特に石川さんはクラウスの演奏に反応して演奏を展開しているように見えたが、終演後二人にそのことを訪ねると、全くそんなことはなく、お互いそれぞれで演奏してたとのこと。残念、聞き違い。
両氏の演奏を聴く機会はいままであまり持つことができていなかったが、これはできるだけ今後も生で見られるときは生で見たい。ただ、石川さんは日本にいらっしゃるはずなのでいいが、クラウスを生で見る機会は多くはないはずで、また来るときに見逃さないようにしたいもの。
そいういえばクラウスが以前(2006年なのかな)下北沢に来たときには見ており、そのときの中村としまるとのデュオもすばらしかった。
で、おそらくそのときに録音したと思われるCDと、Axel Dornerと中村としまるのデュオのCDを購入。これから聴きます。

円城塔「烏有此譚」他
・群像2008年5月号で、円城塔「烏有此譚」を読む。
円城塔の作品は今回が読むのは初めてである。ポナイトでのトークショーで、相当変わった話であることは想像できていたが、予想以上。わかりやすいとは言えない話だが、しかし意外と読めてしまう。科学その他、本人もトークショーで言及していた通り相当に衒学的な文が続く。その荒唐無稽とも思える記述がもはや笑いを誘わずにはいない。
しかしトークショーを聴いた後だと、たしかに本作が「私小説」であるという主張も理解できぬというわけでもない気はする。
・早稲田文学復刊1号の蓮實重彦インタビュー「批評の断念/断念としての批評」を途中まで読む。
まあインタビューだから、という軽い気持ちで読み始めたら、なんのなんの、相当に充実した内容であり、しかも長い。文芸批評に於いて、批評家は「全体」というものに対してのある種の断念を持たざるを得ないし、その断念を持たないようなものは批評とは言えない、という話。今までのところ相当に刺激的であり、勉強になります。
・しかし早稲田文学はかなり面白い雑誌なのではないか。まだほんの一部しか読んでいないが。
Thursday, May 01, 2008
愛おしき隣人

恵比寿ガーデンシネマにて、愛おしき隣人を鑑賞。
いわゆるシュールでブラックな笑いのある、エピソード集的な佳作。それぞれのエピソードはどこにでもあり得る日常的な出来事で、それらの出来事があくまで淡々と、しかしそのエピソード以外に何も起こらないために異様に強調されてスクリーンに登場する。多くの場合、エピソードの中心と、それを見つめる目があり、その見つめる目の冷静さがブラックなおかしみを生む。そんなに大騒ぎすることじゃないのにね、大変そうにしているけれど、それはみんな同じだよ。その冷静な判断と、身の悲劇を悲しむ主体。それがコケティッシュな音楽に乗って、リズミカルに行進、行進、行進。
映画自体はまとまっていて面白い佳作だったが、それまでに見ていた予告編が、すこしいいところを出しすぎているように思った。多くのエピソードについて、すでに予告編で先取りしてしまっていた。見てから公式サイトも覗いたが、さらに多くのエピソードがわかるようになっている。ちょっとこれはいただけないような気がする。これから見る人は、サイトの中のコンテンツは本編を見てからにするのをお薦めしますよ。
Wednesday, April 30, 2008
パラノイド・パーク
ガス・ヴァン・サント監督「パラノイド・パーク」を見た。
冒頭、パークを滑走するスケート・ボーダーを、おそらくインラインスケートの類いをはいたカメラマンが追いながら撮影した、長いショットが特に印象に残った。滑らかな起伏によって作り出される陰影が、様々な表情を作り出しているそのパークを、被写体と交錯しながらカメラが駆け抜ける。そこにイーサン・ローズ(詳しくは知らない)のポストロック的な音楽が合わさり、スケーターのたむろするその空間は、ドリーミーな光に包まれ、しかしある不安定さをもって描画されていた。
そういえば前編を通してかなり音/音楽の多い作品であった。イーサン・ローズの作品はもとより、エレクトロ・アコースティック系の作品や、あるいは紙に鉛筆で文字を書く音や、名刺を持ち上げるときに紙と机がこすれる音など、すこし過剰なまでに録音されており、個人的にはもう少し控えめでも良いような気がした。当然のことながら過剰は無いのとほとんど変わりがない。
主人公の少年は、常に自分の居場所を確定することができない。流動的で、偶然によって支配され、自分が行うこと、あるいは既に行ったことに対してコミットできない。スケートボードによっても、セックスによっても。それが最終的に、エクリチュールの形で定着させることによって、あるいはその言葉たちが、他者へと開かれることによって、彼自身が解放されることができるのか。解釈は開かれたまま残る。
日記 2008/4/29

・買いだめしていた文芸誌から、かいつまんでいくつか読む。
・早稲田文学復刊1号掲載の川上未映子「戦争花嫁」
例の芥川賞受賞作は読んでいないが、本作は相変わらず詩的で、いったい何のことだかわからない「戦争花嫁」について書かれている。その不思議な言葉そのものにつて、言葉のもつ強度や速度が語り、炸裂する散文。世界、そしてその存在を受け止める目、語られる言葉。その言葉を発語すること。その耐え難さ、厳しさを戦争花嫁は引き受け、烈火によって昇華させる。言葉を捕まえ、その言葉となる。川上の鮮やかな手つきが刻まれた佳作。
ところで、早稲田文学の雑誌デザインは面白く、「アラザル」のデザインの参考にさせてもらった。最終的には直接的な影響は出ていないけれども。
・新潮2008/5掲載の東浩紀「ファントム、クォンタム -序章-」
量子コンピュータなどを題材にしたSF作品の序章。先日のエクス・ポ ナイトでも話題に上がっていたが、「ゲーム的リアリズムの誕生」の実践として書かれた可能世界論的な作品。批判的な意見も聞いていたが、僕としてはとても面白く読んだ。まさに可能世界を行き来するSF作品であり、今後の展開が楽しみだ。ちなみに途中で文芸評論家「浅谷公人」というのが登場して笑った(もちろん浅田彰+柄谷行人だろう)。僕が気づいていないだけでこういうフェイクは多分他にもあるんだろうな。
Tuesday, April 29, 2008
I'm not there

・会社に行くも、同じチームで出社しているのは僕の他に一人だけだった。
・仕事が終わると、新宿で山下君に会い、頼んであった物品を受け取る。その後、トッド・ヘインズのI'm not thereを見に行くというので、ちゃっかりついていく。
I'm not thereは6人の主要な登場人物がそれぞれBob Dylan(を表象する人物)を演じるという、一風変わった演出の映画で、非常に面白かった。
まず、前半に黒人少年が登場するのだが、彼と旅の途中で出会った壮年の黒人男性二人とのセッション風景での歌が、ずいぶんと感動的であった。三人でギターを弾きながら歌を歌うシーンであり、スピーカーから流れて来る演奏は明らかに映像で移されているメンバーが演奏しているものでないことがわかってしまうのが(画面にはないベースの音もはいっている)若干気にはなるが、(たしかここで演奏された曲は僕が知らない曲だったと思うが、Bob Dylanの曲ではあったと思う)ブルーズ的な音楽の持つ黒人性と、カントリー/ブルーグラス的な疾走感がたまらなく良い。
その他、映画中で演奏されるのはほぼBob Dylanの曲であり、Bob Dylan自身の演奏もあれば、劇中歌として登場人物が演奏するものもあった。しかし全てきわめてクオリティの高いものであった。音楽を聴くためだけでも、この映画を見る価値はあろう。
映像についても相当の強度が備わっていた。専門的なことはわからないが、白黒や、古い機材を利用した感じのフィルムの諧調や分解能が悪くつぶれた感じの映像の、黒から伝わって来る深い闇の気配、あるいは各ショットが作る構図の美しさなどは、優れた映画の持つ特徴なのだろう。
事前に知ってもいたが、主人公の中で、ロックスターを演じるケイト・ブランシェットの成りきりぶりは凄い。ロックスターの才能と苦悩とを見事に演じていた。
また、映画の終わり方などにはニーチェ的な永劫回帰を感じたが、どうか。
・つまるところBob Dylanは偉大である。ということが痛感させられる映画。
・そもそも数を見ていないということもあるが、映画について何か書くというのはとても難しいね。情報量がありすぎるから、まあ書こうと思えば字数はかけるかもしれないが、なかなかまともなことを書けそうな気が今のところはしない。もう少しくらいは体系的に見たりするべきかもしれない。
Sunday, April 27, 2008
ポナイト
しかし、ライブを見たFilFlaというバンドは、今回初めて聴いたのだが、あまり楽しむことができなかった。僕は別に彼らの演奏が悪かったとは思っていないし、例えば偶然テレビで見たとしたら、あるいは良かったと思ったかもしれない。その前提で、いくつか批判的なことを書いてみることにする。
僕には彼らの演奏が2000年頃のポストロックとか、あるいはスーパーカーみたいなバンドとの違いがよくわからなかった。そしてギタリストが操作していたラップトップから再生されるトラックは、どうにもギタリストが操作する必要性が感じられなかった。
というか、そもそも既に制作されているトラックと一緒にライブを行う場合、それが本当にライブである意味があるのかということに、ある程度以上は注意を払わなければ行けないと思うが、それが今回の演奏からは感じることができなかった。コンピュータと人が同時に演奏することによる、例えばリズムのズレや、菊地成孔的な意味での訛りなどが前景化されるような音楽ではなかったし、明らかなミステイクもあった。そして、曲間でラップトップを操作する間が、どうにもしまらない。明らかにただ再生しているだけであったので、それならミキサーをいじっている音響の人にオペレーションを任せるべきだった。
あと彼らの演奏に限ったことではないだろうが、バンド形態での演奏において、現在あまりにも4拍子というか、アフタービートの演奏が多過ぎではないか。実際現在が他の時代と比べて4拍子が多いかどうかはわからないが、変拍子を奨励するという意味では全くなく、単純にドラムが2拍4拍にスネアを鳴らす音楽ばかりで、ちょっとつまらない。途中すこし抜けていたので確実ではないが、彼らの演奏した曲の中ではおそらくすべてがそのようなリズム構造だったのではないか。そしてドラムの音色についても、どこで聴いても「良いドラムの音」の感覚が同じで、あのソリッドで中身の詰まったバスドラ、シャープなスネアとハイハット、といったほとんど記号化された音色はあまり刺激とは言えない。
最後に、これはラップトップを利用していたことが相当程度影響していると思うが、彼らの演奏は全て1曲ごとに終了してから次の曲に移っていた。まずこの構成自体にも異論はあるが、しかし今問題にしたいのは、その一度曲が終了したときに訪れる無音状態の、異常なまでの生々しさだ。それまでコンピュータの音色も含め、人工的な音響が周りを包んでいたにもかかわらず、最後まで引き延ばされていたギターの音色がボリュームを0にフェードアウトしたとき、そこに訪れる音楽の不在、その明らかに先ほどまでの音楽とは関係ないように思われる会場の雰囲気とかすかなP.A.の駆動音。その対比はどう考えても面白いものではなかったし、だからこそある程度続けて演奏したりMCを入れるなりするべきだったと思う。しかしあの強烈に襲いかかって来る音楽の不在の瞬間というのは、僕が何らかこれから音楽について考える上でのヒントになりそうな気はした。




