Sunday, March 10, 2013

そんな日本語はない

よく「そんな日本語はない」ということを言う人を見かけますね。例えばファミレスで「〜でよろしかったでしょうか」などと言われることに苦言を呈しているわけです。しかし「そんな日本語はない」なんて、その言葉遣い自体が日本語として破綻してませんか。「その言葉遣いは日本語としてふさわしくない」ならわかりますよ。せめて「そんな日本語の使い方はおかしい」でしょう。そもそも「そんな日本語はない」というときの大文字の「日本語」なんて、どうやって定義しているんでしょうか。いや、それはもちろん日本語に大文字なんてありませんから、これはレトリックですが。「そんな日本語はない」という言明は、明らかにクリアでリジッドな「正しい日本語」の存在を前提としています。しかし参照が古典的すぎるかもしれませんけれどもソシュールの語彙を使うとすれば、元来言葉は通時的に見れば当然変遷するものですから、定常的な日本語なんてそもそも存在しない。とはいえ現代の正しい日本語を求めて共時的に見れば、すでにそのような日本語が流通してしまっている以上、現在の日本で使われている言葉を認めなければコミュニケーションは成立しません。だって「そんな日本語はない」って言っても意味はわかっている訳でしょう? いや、もちろん言いたいことはわかりますよ。だからそれは「その言葉遣いは日本語としてふさわしくない」っていうことなんでしょう。その気持ちはわかりますし、そういいたくなる心情にも同意できます。でもそれを「そんな日本語はない」と表明してしまうその心性は、自分の考えている正しさがどこでも通用するという幻想の上に成り立っていることに完全に無頓着なんじゃないでしょうか。いや、まあ僕が最初に言いたいと思ったのは、「そんな日本語はない」なんて言うくらいならもう少し自分の言葉遣いも考えたら如何か、ということだけです。最近気になった訳でもないのですが、ふと思い出したので書きました。