Sunday, August 28, 2016

追跡 − なぞる謎る展コンサートのための



地下室で
ミキシングボードのつまみを回す
水面下で戯れる電気雑音は
鉱石の回路
で増幅され影が
リヴァーブによって折り重なり
高音の発信音へと
変成する
編成する
ホワイトキューブに囲まれたエーテルの振動
高温の外気を求め
上昇しては破裂
し、膨らみのある中音域へと
蘇生する
フィードバック音響が示す
塑性に
暗がりに結晶する耳が
ノイズのスペクトラムに旋律の稜線を与える
戦慄の領域
持続する電子音の水平線から
Gibson ES-175
鉄の糸が
中空のボディを鳴らすと
磁場は攪拌され
銀色のピックアップを駆動する
音と音との空隙
律動が示す
小節線
を飛び越え
弦に与えられた異物を震わせ
白と黒との鍵盤に目配せをしながら
切り結ぶ軌跡をなぞって進む
今(今?)
身体に蓄えられた記憶を辿り
テクストを記述する
ギターを爪弾く
この奏者、あるいは私は
あるいはあなたは
何を見ているのか
振り返っても足跡は見えない
思い出せない形を覚えているか
忘却の上に構築される
旋律はあるか
生成される小さな歴史と物語
追跡せよ
もう途絶えてしまった痕跡を追って
暗い夜が隠す
形相を探せ

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Thursday, August 25, 2016

杉森大輔×諸根陽介×佐々木敦 ライヴ&トーク(山本浩生個展イベント)

杉森も所属する批評家集団アラザルのメンバーで、美術家でもある山本くんの個展のイベントでライヴします。 同じくアラザルの諸根くんとお互いにソロをやった後にデュオもやります。 杉森はギターとエレクトロニクスを使った電子音響の即興パフォーマンスをする予定。
また今回のライヴに当たってのテクストはこちら。ライブでは69年製のGibson ES-175(フルアコのギター)と、64年製のFender Prinston(アンプ)という、僕にとってはいつもの組み合わせでやります(それ以外の機材も使うけど)。凄く良い音なんでそれだけでも聴きにきて欲しいところ。
ライヴの後は批評家でアラザルの恩師である佐々木敦と杉森・諸根でのトークセッションもあり、盛りだくさん。 ご都合つく方は是非。
もちろんイベント前には山本作品の展示も観覧できます(展示のみの場合無料)。

  • 杉森大輔 ソロ
  • 諸根陽介 ソロ
  • 杉森×諸根 デュオ
  • 杉森×諸根×佐々木敦 トーク

  • 日時:8月28日(日)18:00~20:00
    入場料500円(1drink付) 
    『なぞる謎る』 佐々木敦+アラザル企画 山本浩生個展
    https://yamamotonazoru.tumblr.com/
    於:新宿眼科画廊
    〒160-0022 東京都新宿区新宿5-18-11
    03-5285-8822
    佐々木敦のTwitterからの抜粋

    なぞる謎る展のページからの抜粋。
    杉森大輔と諸根陽介は、アラザルのメンバーで、ともに音楽家で批評家、批評家で音楽家です。杉森のレパートリーはモダンジャズから実験音楽まで幅広く、知的でクールそして極限まで洗練された感性をもっています。今回はギターを使ったエレクトロアコースティックパフォーマンスを展開します。諸根陽介は、原理的な<音>を極限まで追求し、そのライブは、観客に<音>の「発見」をもたらし、それはいつも刮目させられるものです。そのような2人のコラボレーション、ソロ、そして終わった後に佐々木敦と2人のトーク。この日は、視覚聴覚言語、それぞれにわたり超/高スペックな表現で観客を唸らせます!!!

    Wednesday, April 09, 2014

    STAP細胞問題について

    STAP問題関連でツイッターでつぶやいたことをこっちにも追記して転載。内容は編集してます。

    専門家の方が既に指摘してることなので改めて僕なんかがいうようなことではないけど、STAP細胞については、最初の論文がその存在を証明、あるいは保証するための文書だった訳でしょ。それに不備、というか実質的には改竄があって信用できない、となればそれは当然著者に責任がある。だからSTAP細胞の存在を改めて証明したいと思ったら、その根拠になるようなデータなり何なりを著者自身が提示しなかったら話は進まない。それがなされるまでは、STAP細胞なんて存在することを信じる根拠はなにもない(著者たちの「あった」という主張を除いて)。もっと正確な追試が必要とか、人を投入して云々っていうのは、もちろん小保方が社長をしている会社とかであれば好きにやればよい話だけど、その存在を信じるだけの根拠がそろわない以上、税金使ってやるような話ではない。今回の会見でも何度も試験でSTAP細胞の生成に成功しており、ノートも提出していないものがあるっていうんだったら、それを検証できる形にするのが先なのは当たり前。まあ今となっては(提出済みのものも含め)それらのノートが本当に正確な実験結果を記載しているのかは闇の底ではある。とにかく「わたしを信じて」とかいうんだったらその根拠を出せっていう、単純な話な訳でしょ。それをしないんだから全ては確信犯の真っ黒け、と考える以外にないですわな。 というか山ほどある論文の不正に対する説明も実質的に何もありませんね。記者会見で主張されたのは悪気がありませんでしたとかいう謎の言い訳くらいのもので。

    小保方の論文改竄は佐村河内のゴーストライター問題と重ねて語られているけど、根本的に小保方の方が悪質。佐村河内のほうは、すくなくとも指示書とか言う形で作品の作者と言えるだけのものを持っていた訳だから、新垣氏との共作ということであれば何の問題もなかった。音楽作品が五線譜の形以外で表現されてはいけない理由はないし、実際そのように表現された現代音楽の作品は幾らでもある。もちろん彼の作成した「指示書」の作成は世間の言う作曲行為ではなかったし、彼自身もおそらくそれが作曲行為と呼べるものであると考えてもいなかっただろう。だから彼がやったことは、ブランド品のパチもんで商売していた悪徳業者くらいのもので、詐欺師呼ばわりされても仕方ないとは思えど、なんというかあえて目くじらたててどうこう言うほどのことではないんじゃないか。要はただのしょうもないゴシップなだけ。

    しかし小保方のほうは科学という、「事実」を扱い、信用が重要であるアカデミックな分野で不正を行った。だから今後彼女の行った研究不正のために、日本の研究者の言うことが信用できないとなれば、今後論文が提出されたらいちいち書かれている実験結果とかまで検証した上でないとその論文が信用できないような状況を作りかねない訳で、科学の研究活動に著しいダメージを与える可能性がある。今回の一件で科学の世界での日本という国の信用が著しく毀損されたかもしれない。これは彼女一人で責任が取れるような問題ではなくなってきている気もするが、理研の対応の悪さもあってもうどうしようもない、っていうのが現状のようですね。そういう意味では早稲田が小保方のいた科のD論を全部調査するっていうのは、そりゃやらされる教授陣およびその教授の研究室の生徒たちにしたらいい迷惑でしょうが、彼らを守る意味でもよい判断じゃないでしょうか。もちろん誠実に実行されればの話ですが。

    この期に及んでおぼちゃんかわいそうみたいな反応が多いらしいのを見聞きして、若干絶望的な気分になったので思わずコメントしました。

    Sunday, December 22, 2013

    さようなら、ホールじいさん

    僕の会社のオフィスの出入り口のあたりには、映画や美術展なんかのパンフレットを置くスペースがあって、そこにはよく東京Blue NoteやMotion Blueのものも置かれている。先日もMotionBlueのパンフレットがそこにあり、表紙の写真にはジム・ホールとロン・カーターが写っていた。もちろんどちらも言わずと知れたジャズ・ジャイアンツである。

    数年前に彼らが来日してブルーノートに出演したときは見に行くことができたのだが、今度もまた来日するのか、と思ってそのパンフレットと手に取ると、挟まっていた白い紙がひらりと滑り落ちた。オフィス用紙にプリンターで印字されたその紙には、「某年某月、ジム・ホール氏が自宅で亡くなりました。公演は中止となります。慎んでお悔やみ申し上げます。」というようなことが書かれていた。

    僕は大学時代にジャズ研でギターを弾いていた。もちろんウェス・モンゴメリーやケニー・バレル、グラント・グリーンといった黒人ギタリストの張りと密度のあるサウンドとブルージーなフレーズは、まさにジャズギターそのものであり、それはそれで素晴らしいと思って聴いていた。しかし当時から絞り込んだトーンが鼻にかかったようでぼんやりとしており、ギターというよりは真空管がなっているような独特のサウンドで、複雑にハーモナイズされたバッキングとソロを聴かせるジム・ホールは特別な存在だった。中でもポール・デスモンドと共演している一連の作品は、洗練の度合いにおいて飛び抜けている。

    前回の来日のときには、ロン・カーターはまだまだしっかりとしていて安定感が感じられたが、ジム・ホールは既にヨボヨボだった。しかしそのヨボヨボのホールじいさんは、はっきり言ってほとんど脳を使わずに演奏しているように見えた。ロン・カーターのベースに乗り、加齢によって(少なくとも瞬間的には)おそらく論理的な思考がほとんど不可能になった老人は、即興する機械と化してギターを弾いた。長年の演奏の積み重ねによって、まさに身体に蓄えられた反射神経のみによって演奏されるジャズ・ミュージック。僕はそのとき、昆虫が刺激に反応するようなアドリブだと思った。

    さようなら、ホールじいさん。あなたなら天国ででも演奏できるでしょう。どうか安らかに。

    Tuesday, December 10, 2013

    オーディオ届く

    オーディオショップをいくつか回って、先日CDプレーヤーとプリメインアンプを購入。翌日には届いたので鳴らしてみると、想像よりもさらに少しいい具合で、とても嬉しい気持ちになりました。店員さんに色々相談しながら試聴した結果、どちらもMarantzになった。CDプレーヤーは新品でプリメインは中古。あと家に親から譲り受けたまま眠っているパワーアンプがあるので、そのうちこれも使うようにしようかと思っている。新しく買ったもののセッティングしている最中にこっちも鳴らしてみたら良い感じだった。ただ今はちょっと置き場に難があるので、時間があるときに工夫しないといけない。

    しかしやはりオーディオは怖い世界で、ケーブルにも中古品があって、今回のぞいた中でも100万超えるようなものも平気で売られていた。発売時は300万位したようだ。店員さんの話では、10年前くらいにケーブルにこるのが流行ったらしく、そのころは10万超のケーブルがバンバン売れたらしい。

    しかし普段iPhoneでやっすいイヤフォンでしか聴いてなかった音源とかを今回購入したシステムで聴いてみたが(ちなみにビヨンセ)、もの凄い情報量が多くて驚く。あと奥行き感と空気感みたいなものがやっぱり違うなあ。

    とはいえ、ここからさらに音が良くなるイメージは、うーんたしかにあるのかもしれないが、そのために今回の何倍とかお金をかけるところまでは、今の時点では想像できないかな。どうだろうなあ。たしかにスピーカーとかはよいものを見つけたら欲しくなりそうだけど。。

    テッド・チャンは読了し、今はアーレント『過去と未来の間』を読み始めているが、やはり時間があまりとれていないのでもの凄くゆっくり読み進めている。アーレントは『人間の条件』しか読んだことがないのだが、『過去と未来の間』もやはり公的な存在としての人間を扱っていて、どうもどの著作にも凄く一貫したテーマを持っているらしいことがわかる。しかし今年中に読み終わるかな。

    Sunday, November 24, 2013

    近況

    相変わらず超久しぶりの更新ですが。

    今更、テッド・チャンデビュー。短編集『あなたの人生の物語』を読んでいるけど、なにこれ超面白い。特に表題作。言語SFと言われるだけはある。読んだ後にヴォネガットのスローターハウス5と同じような問題設定でもあるよなあと思ったら、作者の解説みたいなページでも同作に関連する記述があった。強い運命論と言うか。ちなみに佐々木敦『未知との遭遇』の主張もそういうところがある。

    そういえば少し前に新橋の駅前で古本市をやっているのに出くわし、アーレントとか何冊か見つけて買ってあるのだけど、なかなか読む時間が取れない。しかしこのときは結構リーズナブルな価格だったので見つけて気分が良かった。

    ところで、今使っているオーディオの調子が悪いので、CDプレーヤーとアンプを買い替えようかと思っており、新宿のオーディオユニオンまで物色しにいく。

    しかしオーディオ、これまた胡散臭い世界ではあるよなあ。今回いくつかCD持ち込みで視聴させてもらったけど、僕は全くこれまでにこだわってこなかったのでよく事情がわからないとはいえ、感覚としてはスピーカーが決まったら音はほぼ決まっている気がするし、2万円以上のプリメインを使っていたら何となくそれなりの良い音がするように感じる。これをさらにグレードアップすると、確かに音の分離性とか、いわゆるHiFiな感じは出てくるのは少しはわかるけど、それが「良い音」であるのはこれまでにそういう文脈が出来上がっているからで、必ずしもそれが普遍的な美である訳ではないよなあ。と当たり前のことを感じてしまいました。いや、高いアンプがよいのはわかりますよ、多少は。そして多少はまともなものを買おうかと思っていますが。(こう書いても全く価格帯が想像つかないのがオーディオの怖いところですなあ。)まあ全て素人の意見です。

    オーディオユニオンを覗いたついでに、隣のクラシック館に立ち寄る。少し前に話題になっていたジョン・ケージのピアノ全集(18枚組)を見つけ購入。他にブーレーズ関連の6枚組と、同じくブーレーズの『SUR INCISES』を買う。この『SUR INCISES』をさっき聴いていたが、凄まじく明晰な音響だった。こういう風になっていると、素人的にはもう調性とかそういうことは全く気にならなくなる。専門家がどう聴いているのかはちょっとわからない。しかしすこぶる刺激的。

    Sunday, March 10, 2013

    そんな日本語はない

    よく「そんな日本語はない」ということを言う人を見かけますね。例えばファミレスで「〜でよろしかったでしょうか」などと言われることに苦言を呈しているわけです。しかし「そんな日本語はない」なんて、その言葉遣い自体が日本語として破綻してませんか。「その言葉遣いは日本語としてふさわしくない」ならわかりますよ。せめて「そんな日本語の使い方はおかしい」でしょう。そもそも「そんな日本語はない」というときの大文字の「日本語」なんて、どうやって定義しているんでしょうか。いや、それはもちろん日本語に大文字なんてありませんから、これはレトリックですが。「そんな日本語はない」という言明は、明らかにクリアでリジッドな「正しい日本語」の存在を前提としています。しかし参照が古典的すぎるかもしれませんけれどもソシュールの語彙を使うとすれば、元来言葉は通時的に見れば当然変遷するものですから、定常的な日本語なんてそもそも存在しない。とはいえ現代の正しい日本語を求めて共時的に見れば、すでにそのような日本語が流通してしまっている以上、現在の日本で使われている言葉を認めなければコミュニケーションは成立しません。だって「そんな日本語はない」って言っても意味はわかっている訳でしょう? いや、もちろん言いたいことはわかりますよ。だからそれは「その言葉遣いは日本語としてふさわしくない」っていうことなんでしょう。その気持ちはわかりますし、そういいたくなる心情にも同意できます。でもそれを「そんな日本語はない」と表明してしまうその心性は、自分の考えている正しさがどこでも通用するという幻想の上に成り立っていることに完全に無頓着なんじゃないでしょうか。いや、まあ僕が最初に言いたいと思ったのは、「そんな日本語はない」なんて言うくらいならもう少し自分の言葉遣いも考えたら如何か、ということだけです。最近気になった訳でもないのですが、ふと思い出したので書きました。

    Monday, December 10, 2012

    ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で』

    ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で』を読んでいる。タイトルが示すほどは福島のことに固有の論ではなく、もっと射程の広い文明論。最後まで読んでないから詳しい内容について云々するつもりはないけど、一言だけ。

    表題の論考は原子力を中心にした技術論で、現在の技術あるいは文化は、目的と手段、あるいは自然(ピュシス)と技術(テクネー)という二項対立の図式が崩れてきて、その区別のつかないというか、手段そのものを目的とするような手段、あるいは自然に影響を与えることで、それと不可分になってしまう技術という状況を描き出している。これってまさにポストモダンじゃないの。

    で、ナンシーが提唱するのは未来について考え「ない」ことである。未来を指向するのではなく、徹底的に現在を指向すること。これは僕の理解では、来るべき未来という一つの理想を措定したときに、そこから漏れだす無数の可能性を縮減してしまうことが問われているのではないかと思う。逆にナンシーは「現在において思考すること」を問う。自らの目的が現在において、あるいはその存在において果たされている状態を常に実現すること。我々にできることはそれしかないし、その「現在」においては今と終わりが結びつく。というようなことを読むにつけ、やはりナンシーもニーチェ派なんだな、と感じた。これって永劫回帰ですよね。

    書きたかったのはそれだけ。

    Tuesday, November 13, 2012

    アラザル vol.8

    アラザルvol.8、完成しました!

    2012/11/18(日)、第十五回文学フリマで初売りです。ブースはオ-33。

    僕は「芸術/音楽、そして世界と主体」というタイトルで書きました。1回では書ききれなかったので、初の連載になりました。音楽論/即興論のようなものを書こうと思っているのですが、今回はまだ前フリ段階。ほとんど音楽以前の芸術論のようなものを書いています。

    またいくつかの書店での販売もありますので、追って連絡します。

    Saturday, May 05, 2012

    アラザル vol.7

    アラザル vol.7が完成しました。来る第14回文学フリマで初売りです。

    僕はまた音楽、特に弱音系の作品について書いています。多分読み易いと思いますので、ぜひ。タイトルは『多摩川の日暮れに鳥たちの歌が青く染まるのを聴く』です。

    アラザルメンバーによる論考の他、現代音楽の作曲家である鈴木治行氏と、ラッパーグループ・パブリック娘。のインタビューを掲載しています。

    文学フリマの会場は流通センターの「第二展示場(E・Fホール)」です。アクセスの詳細はこちら。会場内のブースは 「オ-38」です。

    Saturday, April 07, 2012

    Pina 3Dと写真美術館

    いつもなら土曜は昼近くまで寝ていることが多いが、今日は映画を観に行くために普段より早く起きた。朝から快晴。まだ寒さが残っているものの、冬の鋭さに比べれば格段に緩やかになった。今日は新宿のバルト9に『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を観に行く。これが朝9:30と夜21:10と23:45の回しかなく、夜でないとすると早起きするしかないのである。

    映画はコンテンポラリーダンサー/振付家のピナ・バウシュの追悼ドキュメンタリーで、なんと3D上映ということでとても楽しみにして観に行った。で、いたく感激してしまった。コンテンポラリーダンスを自然光の下で観る機会なんて僕は持ったことがないが、本作では映像作品であることを生かしてロケ(という言葉でよいのだろうか)で撮影したシーンが多く、そしてそれらが極めて美しい。さらに3Dであることでロケでの臨場感が強まっている。劇場での撮影でも、群舞のリアリティーも3D撮影ならでは。

    もう少し感想を書こうかと思ったが、続きはアラザルでレビューしようか。とにかく、本作はぜひ劇場で多くの人に観てもらいたいと思った。

    午後は恵比寿に移動し、写真美術館で今やっている展示を3つ見た。『生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー』展、『幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界』展、『フェリーチェ・ベアトの東洋』展である。書いた順に観たのだが、映画を見た後にはしごすると堀野正雄展の途中あたりで結構疲れた感じになってきた。お茶でもしようかとも思ったが、閉館までの時間に余裕がなく、ベアト展に突入。しかし実はあまり期待していなかったこのベアト展が存外に素晴らしく、最後は疲れを忘れてまた没頭できた。展示されているのは(というかベアトが活動したのが)写真術の初期、1860年代あたりの作品なのだが(ドアノーの約100年前!)、驚くほど完成されている。日本の写真が多く展示されているが、どの写真も美しい。

    今は映画の後に新宿で購入したカエターノの近作(といっても2006年)『cê』を聴いている。カエターノは歳をとらないなあ。相変わらずのびやかな歌声と、ソリッドなギター。よいアルバムです。

    Tuesday, March 20, 2012

    最近の仕事と読書

    ここのところ、なかなかに仕事が忙しい。新しいWebサービスを開発していて、近々ベータとして公開する予定でいるのだが(クローズドなもので、残念ながらここでお知らせする類いのサービスではない。)、初期に作ったまま放ってあった未熟な部分が今になって目につく。そもそも基本機能として不足する点もあるが、それはこれから積み上げてゆくしかない。

    公開するのに伴って、UIのデザインも詰めていかないといけない。本来、我々の会社としてはレイアウトやデザインは専門のデザイナーに委託するのだが、今回、当面のデザインは自分でしている。これも完成度が低いものが残っているので、これから最低限の作業が必要である。これはこれで楽しい作業でもありつつ、しかしなかなかに時間と体力を使う。

    今年に入ってからはこの仕事の関係もあり、珍しくIT関連の本を何冊か読んでいた。だからあまり縦書きの文芸書を読む時間がとれていなかったが、今は少し前に高田馬場のブックオフで買った中井久夫のエッセイ集、『記憶の肖像』を読んでいる。それぞれとても短い散文が集められているが、どれも非常に美しい文章である。旅行の回想などが多いが、言葉の端々からまなざしの細やかさが伝わる。

    ちなみに中井久夫を読もうと思ったのは、ひとつにはずいぶん前に佐々木中氏がジュンク堂新宿店のブックフェアで紹介しているのに興味を持ったからだが、もうひとつ大きな点としてはアラザルの山本君がvol.6で言及しているのを読んだからだ。山本君は精神科医としての中井久夫を読んでいたが、『記憶の肖像』では残念ながら直接精神科的な文章は今のところ出てきていない。そのうち別の著作も読んでみたいと思う。

    Tuesday, January 31, 2012

    "Toy Room" from Chick Corea / The Song of Singing

    Chick Corea / Song of Singing

    Chick Corea / The Song of Singing

    Chick Corea(p) Dave Holland(b) Barry Altschul(ds)
    1970, BlueNote

    ジャズ、こと65年あたりのモードジャズが一通りやり尽くされてフリーやらエレクトリックやらが実験されるようになる時期、アルバム全体はそこまで成功しているとは思えないものの、その中の一曲が一際輝きを放っている例がいくつかあるように思う。

    チック・コリアがBlueNoteに1970年に録音した『The Song of Singing』もそういったアルバムのひとつであり、そして冒頭に収録されている『Toy Room』という曲がその輝きを放っている曲ということになる。最近CDを整理していて久しぶりに聴いてみたのだが、やはりこの『Toy Room』が美しいのでそれ以来何度か聴き返している。

    1970年と言うと、チックはアンソニー・ブラクストンとのCircleというバンドを結成し、いくつかのアルバムを発表している。これはいわゆる前衛派であるブラクストンとのコラボレーションであり、大きくフリーに触れた内容らしいが、これはかなりの失敗作というのが世間の評判。僕は残念ながら未聴だが、チックとブラクストンという(今思うと)異色の組み合わせには興味をそそられる。

    本作『The Song of Singing』もそういった当時のチックの問題意識を反映して、研ぎすまされた空気感を漂わせる演奏が続くが、少しフォーカスが絞れていないと言うか、聞き所が少ない印象がある。

    しかし冒頭に収められているデイヴ・ホランド作の『Toy Room』は、まさにトイピアノで演奏しているかのように軽さのあるタッチとリズムで演奏される短いテーマと、断片的なフレーズと和音を飛散させていくようなアドリブがなかなか絶妙で、この1曲のためにこのアルバムを買ってよかったと思わせるに足りる。

    ただし。本作の数年前に発表している『Now He Sings Now He Sobs』のほうは全編充実した内容であるから、もしこちらを未聴の場合はこちらから聴くのが正解。

    Sunday, January 22, 2012

    円城塔『道化師の蝶』 芥川賞を受賞!

    アラザル vol.2でもインタビューさせていただいた円城塔さんが『道化師の蝶』で芥川賞を受賞されました。円城さん、おめでとうございます。

    受賞作は、というか円城さんの作品はいつでもそうですが、物語とは、書くこと、読むことが、単に文字を書き付けるということ以上に、それを書き、読むと言う動作と、それに伴う効果の中にこそ存在しており、そしてその効果の中に存在している作中人物とのコミュニケーションはあり得るのか、というようなテーマ系を持っています。そしてそれは人の認知限界を超えたところに存在するかもしれない、未知なる他者とのコミュニケーションの可能性を探る、野心的な試みでもあります。

    ちなみにこの作品は旅の間に読まないと効果のない小説とはどんなものか、というような記述で始まるのですが、私はちょうど海外旅行のフライト中に読んでいたのでとても印象に残っています。作中では東京—シアトル間の飛行の場面から物語は始まります。

    現時点での円城さんの最新作は『群像』2012年2月号に発表された『松ノ枝の記』ですが、これもやはりテーマとしては同様のものだと思います。というか、さらにそれを押し進めた作品だと思いました。そして様々に学際的なディテールが詰め込まれながらも感動的な読後感があり、こちらもぜひ早期に単行本化すべきだと思いますし、無論そうなるでしょう。こちらも是非多くの人に読んでもらいたいところです。

    ちなみにアラザルvol.2でのインタビューは現時点で読めるインタビューの中で、特に充実したものだと思います。HEADZのWebストアで取り扱ってもらっていますので未読の方は是非。

    ちなみに上の写真はインタビューで単行本にもなっている『烏有此譚』について、作品の構造を説明してもらっているときのもので、ノートにある図形は小説のプロットだそうです。ユーモアが伝わるでしょうか。

    Thursday, January 12, 2012

    エントロピーについて/佐々木敦『未知との遭遇』

    佐々木さんの『未知との遭遇』を読んでて、やっぱり価値基準として同意できることが多いなあと思っているのだけど、「エントロピー」って言う言葉をよく使っている箇所があり、しかしこれは明らかに言葉を誤用しているので指摘しておこうと思います。

    まずエントロピーの逆の概念として、エネルギーというものがある。エネルギーは誰でもが体感としてわかっているもののはずで、たとえば温度が高いものとか、高速で移動している車とかは、低い温度のものや止まっているものに対して高いエネルギーをもっている。逆に氷なんかはとても温度が低いので、エネルギーとしては小さい。

    これに対してエントロピーというのは、こういったエネルギーが高い状態とか低い状態とかが様々に分離している状態では低くなり、それらが渾然一体となった時には高くなるような量であって、エネルギーが低い状態のことをいうのではない。よく言われる例では、コーヒーとミルクが分離している状態と、混ぜられてミルクコーヒーになった状態とでは、エネルギーの総和は同じだが、混ぜられた状態の方がエントロピーは高くなっているわけである。また、コーヒーとミルクを一緒のコップに入れておいて、自然に混ざることはあるが、逆に混ぜられたミルクコーヒーがコーヒーとミルクに分離することはない。つまりエントロピーは常に増大し、減ることはない。ちなみにこれを「熱力学の第二法則」という。この辺りはたしか高校の物理で習います。大雑把にいえば、いろいろな物事があちこちで高かろうが低かろうが大きなポテンシャルをもっている状態を「エントロピーが低い」状態といい、逆にすべてがならされてどこにも特徴がないような状態を「エントロピーが高い」状態という。

    で、件の『未知との遭遇』に出てくる「エントロピー」だが、例えばこんなふうに使われている。

    このように、たとえ世間一般からしたらマイナーな世界でも、その中で激しいエントロピーが蓄積されると、あるきっかけで一挙にブレイクし、いつのまにかポピュラーになってしまう、という現象が起こり得る。p.93

    これは明らかにネガティブなエネルギー、つまり負のエネルギーが高い状態を表現している。したがってこれはエントロピーの低い状態であって、語の誤用である。激しいエントロピーは爆発などしない。というか激しいエントロピーという形容は成立しない、と言い得る。それは事物が徹底的に平均化してしまっていて、何事も生起しない状態のことだからだ。エネルギーの附置(物理ではポテンシャルフィールドといいます)に濃淡があれば、そこに変化が発生し、事件=ハプニングが生じる。ここでこそジョン・ケージの出番があるわけですね。そしてこのような状態を、エントロピーの低い状態と呼ぶわけである。しかし、先に引用したのはオタクたちの内輪的なネタの消費行動の加速=炎上などの現象などを論じている箇所だが、仮にエントロピーが高くなるとすれば、それは対象のネタが消費し尽くされ、極めて「普通」のことになって誰も議題にすらしなくなったような状態をいうはずであり、だからこのようなブレイクを起こしうるのは極端に大きい負のエネルギーでしかありえない(正とか負とかにはこの場合特段の意味はないが)。

    では逆にオタクたちはなぜこのようにエントロピーの低い状態を容易に生成しうるのか、というのはまた別の議論として成立し得るだろうが、ここでは立ち入りません。

    そういえば、『即興の解体/懐胎』のときも使われている集合論の記述ことで何かおかしいところがあって本人に指摘したこともあったが(そしてこのときも意図自体は理解できるものだったが)、結局「そう言う脇の甘いところが僕なんだよね〜」などとかわされたのだった。しかしこういう理系的な言葉を使う場合は、(当然だけど)あまり間違えない方がいいですよ。こういう細かい突っ込みをしたくなりますからねえ、間違いに気がついた場合に。

    とはいえ、本自体は非常に刺激的で、特に三日目の本谷有希子とジジェクが登場してくるあたりはスリリングでした。もっとまともな感想などは書ければ別エントリーで。 

    Tuesday, January 03, 2012

    あけましておめでとうございます

    新年あけましておめでとうございます。

    昨年はとてつもない年になりました。アラブ民主化の流れが勢いを増していく中、日本では地震が起こり、1000年に一度の津波に見舞われ、原発が爆発しました。ギリシャの経済危機からヨーロッパの経済が崩壊していく中、被災した日本の通貨は値上がりし、ビン・ラディンが死に、カダフィが死に、金正日が死にました。

    また、幾人かの知人が結婚し、別の幾人かには子どもが生まれました。会社を辞めて独立したり、海外の大学に研究をしに行ったりした知人もいました。

    私はレーシック手術を受け、秋に前の家の近くに引っ越しをし、リビングにはもらいものの大きなテレビが鎮座するようになりました。アラザルにはなんとか二回原稿を書きました。

    無数の出来事の急襲を受けた2011年ですが、やはり地震の2011年ということになるでしょうし、だから来る(というかもう来ていますが)2012年にはポスト震災としての様々な事物があらわれてくるでしょう。

    だから2012年は、「先を見通すことはできない」という前提からのスタートにならざるを得ないと思いますが、だから目標くらいは持っておきたいところです。それはここで公表するようなことでもないので控えますが、善かれ悪しかれ、自己責任論が強まってくるのは必至だと思いますので、いつでも自分と家族くらいは守れるように精進したいと思います。

    いつも言われていることですが、しかし経済/通貨不安と震災の影響で、かつてないほど、この「先の見通せない」状態の年明けとなりました。しかし被災地の詩人、和合さんは「明けない夜はない」と繰り返しています。それは多分、無闇/無根拠に明るい社会を信じることではないでしょう。むしろ生活することの自明性が縮減していく社会になりつつあるようにも思えます。それでも、つねに先に進むことはできるし、むしろそれしかできないのだ、ということでしょう。

    それでは、2012年が皆様にとってよい年でありますように。今年も宜しくお願いいたします。

    Thursday, November 10, 2011

    さらば青春の光

    ずいぶん長いこと、あなたとは一緒だった。

    どこへ行くときも、いつもあなたはわたしのそばにいた。
    だから、あなたがそこにいること自体、当然のことだと思っていたし、そんな意識さえないままに暮らせるぐらい、空気ほどにも身近な存在だった。
    だから、今までわたしが自分で見ていると思っていたようなことも、実はぜんぶあなたを通して見ていたんだってことには、ようやく今頃になって気がついたんだ。
    そして、あなたといる世界が、すべてではないっていうことにも。

    あなたといた時間はもうすっかりわたし自身の一部になっているし、いま、あなたなしで出かけてみると、まわりの人もあなたがいないことについて訊いてくる。そう言われるたび、あなたがどれだけわたしという人間と溶け合っていたかって、思い知らされる気がする。

    でも、あなたなしで見る世界は、やっぱり今までとは違って見えるよ。
    あなたが私に見せるために用意してくれた枠の外側にも、こんなに広い視界が広がっているなんて、まあ、知ってはいたけどさ、やっぱりすごく新鮮に感じる。 だからこれからは、あなたなしでもわたしはやっていけるっていうことを、自分で確かめていこうと思う。それはさみしいことだけど、前進だと思ってる。

    これまでどうもありがとう。
    あなたのことは忘れない。


    というわけで、レーシックしました。
    さようなら眼鏡。

    Thursday, November 03, 2011

    アラザル vol.6

    アラザル vol.6、完成しました! 本日11/3(水)の第十三回 文学フリマで先行発売します。

    • 日時:11/3(祝)11時〜16時
    • 場所:東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)
    • ブース:アラザル カ―19
    • 価格:500円

    僕は今回、「管理/邂。逅」というタイトルで、軽いエッセイを書きました。 とはいえ、テーマは記号と美学でしょうか。そんな大したものではないのですが。 ぜひお手に取っていただければ。 アラザルのブログで、冒頭の一部が引用されているので、ここでも紹介しておきます。

    あるとき、僕は仕事でプログラムを書いていた。そして一通り区切りがついて、今書いたプログラムの動作を確認すると、画面上に「邂。逅」という文字が浮かび上がった。「邂。逅」? 僕はプログラムの中にそんな言葉を入力していない。しかも、真ん中にある「。」はなんなんだ。まったく想定していなかった言葉に襲われ、僕の視界にチカチカと火花が瞬いた。豆鉄砲をくらった鳩よろしく、思考が一瞬途切れる。もう一度ディスプレイに焦点があうと、改めてこの謎の言葉と向き合い、小さく笑う。そして「なんだこれ」と呟いた。ちょっとむずかしくて、口語では滅多に使わないこの「邂逅」という言葉。そこに足をもつれさせる小石のように転がる句点。脱臼させられた厳めしさのような、ちょっとシュールな光景。

    書店等での取り扱いについてはまた告知します。よろしくどうぞ!

    Tuesday, October 25, 2011

    miles davis / milestones

    会社からの帰路で、久しぶりにマイルス・デイヴィスの『milestones』を聴いたのだが、これが良かったなあ。大学時代は表題曲以外はそんなに好きではなかったけど、なかなかどうして、他の曲も素晴らしいじゃないの。

    全体的にアップテンポの曲が多くて、リズムセクションのサポートが素晴らしいんだと思うけど、とにかく全編グルーヴしてる。学生のときはFour & Moreとか聴いた後だったから、ああいうモードバリバリのものが聴きたかったんだけど、こういうハードバップもいい。まあ、マイルスつかまえていいねもなにもあるか!つう話ではある。

    でもやっぱり改めて聴くと表題曲は好きだなあ。逆に一般的には、この曲はマイルスがモードジャズを最初に導入したと言われていて、よくそのマイルスのソロは流石だけど、キャノンボール(とコルトレーンも)がモードのコンセプトを理解していない、という評判を耳にする(これは『カインド・オブ・ブルー』のときも同様)。まあその後のモードジャズの展開を知った上で聴けば確かにそうだ。それまでの複雑なコードチェンジから離れて、モード一発、つまりコードによる展開が皆無であることがコンセプトの曲であるはずなのに、コードチェンジ風のフレーズが随所に出てくる。まあ間違いなくキャノンボールは単一のモードというスタティックな状態に我慢できなくなって、思わず展開してしまったんだろう。高校生ギタリストが早弾きしちゃうみたいなものだ。そしてそもそも、キャノンボールのファンキーで張りのある音色が、クールなモードジャズにあまり似合わないという面もある。でも、そういうコンセプト云々といった前提抜きで彼のソロを聴いてみれば、なかなか上質のジャズじゃないですかね。あの音色でまさにスイングしていくフレーズのダイナミズムは、流石キャノンボール。そもそも僕、キャノンボール凄い好きだからなあ。意外に思う人がもしかしたらいるかもしれないけど。

    しかし、amazonの紹介文、ちょっと面白すぎる。「ジョン・コルツレイン」やら「ポール・シャンバーズ」、「ビーポップ」なんてのもあり、果ては「『ストレート・ノー・チェイサー』でコルトレインは、大胆に和声のソロを、アダリーはトラネのスーパーソニック風を受け継いで、シャンバーズはかっこいいソロでまとめてくれる。」だと。「アダリーはトラネのスーパーソニック風」! なんだこれ。まあ「トラネ」は多分トレーン(コルトレーンの愛称)のことだけど。マイルスのアルバムくらいちゃんとした解説いれられなかったのかねえ。

    以下、紹介文引用

    1958年、デイビスはサクソフォン奏者のキャノンボール・アダリーとジョン・コルツレイン、ドラマーのフィリー・ジョウ・ジョーンズ、ベース楽器奏者のポール・シャンバーズとピアニストのレッド・ガーランドと出会った。ジャッキー・マックリーンの「ドクター・ジャッキー」と、ジョン・ルイスとディジー・ジレスパイの「ツー・バス・ヒット」と、セロウニウス・モンクの「ストレート・ノー・チェイサー」などのビーポップとブルース調懐かしい曲が収録されている。アルバムの流れとしては、名作の「マイルストーン」で未来に向けて進んでいき、次にその流れで歴史的な『カインド・オブ・ブルー』がくる。デイヴィスの曲の「シッドズ・アヘッド」はベニー・ゴルソンの「キラー・ジョウ」と「ビリー・ボーイ」の様な、なめらかで美しいリズムだ。ガーランド シャンバーズと、ジョーンズ、そしてアーマド・ジャマールが共演している。このすばらしく再度録音された盤は、「ツー・バス・ヒットでのジョンのふらふらしたリズムと、デイヴィスのしっかりとした歌詞が上手に融合されている。「ストレート・ノー・チェイサー」でコルトレインは、大胆に和声のソロを、アダリーはトラネのスーパーソニック風を受け継いで、シャンバーズはかっこいいソロでまとめてくれる。このアルバムは一流なグループがこの世に出した一流な作品だ

    Wednesday, August 17, 2011

    GoogleのMotorola買収について

    GoogleがMotorolaを買収した。あくまでクラウドサービス、つまりはWebアプリケーションに特化した企業であるGoogleが、ハードウェアメーカーを買収したことには、大きな驚きがある。

    今回の買収、一見、GoogleがiPhone流の統合型モバイルデバイス開発を進めるための行動のように見えるが、やはり、Googleの主要な収入源が広告であることを考えると、今回の買収の意図は、よりAndroidの価値を世の中に伝えるためにMotorolaにNexusシリーズのようなフラッグシップモデルを作らせることにあるように思う。もちろんその結果として、Motorolaの端末が沢山売れればそれはそれでよいが、Techcrunchの記事が指摘している通り、ある一定以上のシェアの端末で最新のAndroidが動作するという事実が作る、他のAndroidベンダーへのバージョンアップへの圧力は、Googleの考えるUXを、より迅速に世に広める助けになるだろう。Motorolaは今後、このようにAndroidがもつポテンシャルを最大限に発揮するような端末を作ることに専念すればよく、もちろんシェアを落とすことは避けなければいけないものの、端末販売自体が収益に結びつかなくても構わないことになる。Googleとしては端末からの収益を上げることよりも、Androidのシェアを拡大することの方が現時点での優先順位は上だろう。おそらくMotorolaは今後、アーリーアダプター向けの上位機種をメインに開発していくことになるのではないか。それによってAndroidの最新の機能をいち早く、しかもGoogleの設計意図通りに世に送り出すことができるからだ。しかし、もしこれからGoolge+Motorolaの端末が成功して一躍Google + Motorolaが(単独でiPhoneに迫るような)巨大携帯メーカーに躍り出た場合には、各Android端末メーカーたちにどのような影響を与えるのかが気になるところだ。

    今後のシナリオを、よいのと悪いのと考えてみる。

    よいシナリオ


    Google + Motorolaの端末がAndroid端末のリファレンスとなることで、Androidの標準化が進む。その結果サードパーティーのアプリ開発が促進され、かつ、端末相互の互換性が高まることで、Google marketの価値も高まる。またAndroid全体のシェアの大きさから、主要コンテンツホルダーがGoogle Marketに相次いで出店する。このサイクルの中でGoogleは広告収入とともにマーケットからも高収入をえることができる。

    悪いシナリオ


    先端の端末をGoogle + Motorolaが開発、販売を行うことで、その市場で他のAndroidメーカーが対抗しづらくなる。結果、それらのメーカーはよりコンシューマー向けの製品開発をするが、競争が激しく利益が上がらないため、Androidからフォークした独自のOSを開発し、差別化を図ろうとする。この時、Androidとのアプリの互換性がうたわれるが、結局Android陣営の分断化が進む。さらにSamsumgのような大手は独自のマーケットとOSを開発してAppleに対抗しようとし、共倒れとなる。