Saturday, May 09, 2009

日記 2009/05/09

・明日、いよいよ文学フリマアラザル2が先行発売です。その後、書店に展開します。宜しくお願いします。

・GWはほとんど家にいて、幾つか本を読んだ。といっても読むのが遅いのでほんの数冊ですけど。

・その中ではまず桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が面白かった。不勉強ながら僕にはこれが初の桜庭作品。とても切ない青春小説。最後にカタルシスが襲うあたり、ある意味ヘッセとかに近いものがある。ライトノベル作家として活躍していた頃の作品だと思うのだが、十分文学的と言えるのではないか。何をもって文学的か、ということは今全く考えていないものの。さっき『赤×ピンク』も読んだが、どちらもモナトリアムを乗り越えるための条件と、それを阻害するようなトラウマをテーマにするような作品で、まあそういう意味ではやっぱり中高生、つまりライトノベルの読者に読まれるべき小説ではあるのだろうな、と感じる。でも、そのモナトリアムという閉じた世界から、その外側にある社会的な世界という一つ大きな世界へと視界が広がる瞬間に、一つメタへの視点の移行があり、その辺りの雰囲気がもしかしたらとても今日的なのかもしれない。『砂糖菓子〜』だとそれは兄の存在だろうし、『赤×ピンク』では「八角形(オクタゴン)」がそれに当たるだろう。

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

・もう一つライトノベル的な作品として、米澤穂信『春季限定いちごタルト事件』を読む。米澤穂信も初めて読む。というか、BRAINZで佐々木さんが紹介していたのが気になったので読んでみた。いわゆる「日常の謎」を書くミステリ作家らしく、だからもちろん人が死んだりすることはない。少なくとも今のところ(この作品はシリーズ第一作)。しかしこの作品は(これも佐々木さんから事前に聞いていたことだが)、主人公が探偵なのだが、その探偵であること自体に疑問というか、不自然さを感じており、普通の人=「小市民」になろうとしていて、このあたりがそもそもミステリというジャンル性に対する懐疑につながっていて、軽快な文体とそのメタミステリ的な構造の面白さにかなり夢中になって読みました。

春季限定いちごタルト事件

Tuesday, May 05, 2009

池田亮二展



東京都現代美術館で行われている池田亮二展に行ってきた。


東京都現代美術館の広い地上の1フロアと地下の1フロアを、それぞれ事実上1つのインスタレーションのみで構成するという(その他にも幾つか作品はある)非常に大胆な構成をとっていて、またそれが成功していた。特に地上のフロアで展示されている"data.matrix"と"data.tron"は圧巻。この二つは同じ空間での展示であり、またそれぞれが音と時間を同期しているため、事実上一つの作品と考えてよい。"data.matrix"は直方体状のオブジェクトに格納されたプロジェクターを10並べ、それぞれが壁に映像を投影する作品だ。それぞれの映像は"data"を可視化したしたものであることがわかる。3次元空間に点や数値をプロットしたものであったり、UNIXでファイルを一覧した時に表示されるような画面であったりするものが、それぞれは高速に、あるいはゆっくりと変化している。またプロジェクターを格納した直方体にはスピーカーも格納されており、そこからサインウェーブやクリックノイズが発されている。
また"data.tron"は"data.matrix"が投影されているのとは別の、入場する方向とは逆向きの壁に3つのプロジェクターを使って投影されている。投影されているものは"data.matrix"と同じテイストのものだ。


それが、ある瞬間に発せられるパルスによって一度に暗転し、すべての映像が同期して動き出す。縦、あるいは横に同期をとった動きを一定時間継続した後に、もう一度パルスが鳴り響くと、一転して白黒の非常に細かな数値の列が画面上を覆い尽くす。それぞれの数値は横方向にスクロールしたり、停止したりを繰り返す。画面いっぱいに広がった数値は遠目にはホワイトノイズにしか見えない。


この状態が暫く続いた後に、暗転して、一つのサイクルが終わる。




この作品の意図するところは、名前にも現れているとおり「データ」という存在である。データとは現代的にはほぼコンピュータで計算可能な情報のことをさしている。そして改めて確認するまでもなく、コンピュータで計算可能なデータは0/1に量子化されたデジタルデータだ。複雑な構造をもつデータもすべてはこの極限的に細かな単位にまで還元することができる。そしてコンピュータで扱うことのできる音や画像の構成の最小単位は一つの周波数、一つのピクセル等であり、これらを用いてそのデータの構造を可視化し、可聴化していくことが今回のインスタレーションの、敷いては池田亮二という作家が制作してきた作品の大きなテーマである。そしてそれらの構築された作品が、最終的にホワイトノイズのような数値の海に飲み込まれるところで、ほとんどカタルシスのようなものを感じることができる。さて、このカタルシスはどういった性質のものなのか。これについてはもう少し考える必要があるかもしれない。僕はこのホワイトノイズにすべての画面がおおわれたところでとても感動したが、池田亮二のごときモダニズムの作家がこのカタルシスを用意していたのかどうか。性急には判断できない。