Thursday, September 01, 2016

なぞる謎る展ライヴ&トークセッション お礼と補足

改めてなぞる展の「杉森大輔×諸根陽介×佐々木敦 ライヴ&トークセッション」ご来場いただいた皆さんありがとうございました。トークイベントに登壇するなんてことは(ほぼ)人生初でしたが、これも前にツイートしてますがご好評いただいたようで何よりです。とはいえやはり落ち着いて振り返ってみると、いろいろと話し足りていないこともあったので幾つか補足を。

やはり今回の中心的なテーマは「即興」であったわけですが、そうであるとすると必然的に言及すべきなのは「自由」という概念であるわけです。今ここで演奏されている音は、演奏家の自由意志に依っているというのが即興演奏の基本的なコンセンサスであることに疑いはありません。さらに言えば作曲作品、あるいは構成された芸術作品というものは作家の自由意志によって作り出されたものであるからこそ、そこに何らかの自律した価値を含む「作品」として成り立っているわけです。

これらの観念はおそらくヨーロッパ的、キリスト教(一神教)的なもので、物事の因果律を遡っていくと、究極的には人間存在の自由意志、あるいは神の存在に行き着く、という理解があります。つまり、どんな作品にもそれに先立つ作品群によって構成される文脈やスタイルに依存しているわけですが、そこからの差分として表現の拡張を為したのは作家の自由意志である、ということです。この辺りはヨーロッパ的知性の一つの頂点であるだろうカントを参照しても明らかです。カントは賢明にも神の存在を証明することはできないと明言していますが、しかしそれを直感することはできるしそうすべきだ、という趣旨のことを書いています。

しかし本当にそうか。この根源的唯一性こそポストモダンの時代に疑問に付され、現在では実証的にも自我の唯一性は否定されているというのが私の理解です。そのように多数化された価値基準の元で、これからの芸術には如何なる創作が可能なのか。そういったことが音楽の現場でも問われる必要があり、様々な実践は行われています。が、基準点が複数化されている以上、当然それについて良い/悪いを普遍的にラベリングすることは不可能です。

しかしその不可能性に立ち向かうことが現代の批評であるわけです。トークではどちらかというと音楽作家/演奏家として語っていたように感じていますが、書き手としてはそういった困難性について、改めて原稿にできればいいと思います。

というかまたトークのような形での議論もしたいところ。さらに論点を絞った議論も必要だと思いました。カントと即興、という文脈では「物自体」というタームについても言及するべきだと思いますが、この辺りも別のところで展開したいです。

(Twitterからの転記)