Monday, December 10, 2012

ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で』

ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で』を読んでいる。タイトルが示すほどは福島のことに固有の論ではなく、もっと射程の広い文明論。最後まで読んでないから詳しい内容について云々するつもりはないけど、一言だけ。

表題の論考は原子力を中心にした技術論で、現在の技術あるいは文化は、目的と手段、あるいは自然(ピュシス)と技術(テクネー)という二項対立の図式が崩れてきて、その区別のつかないというか、手段そのものを目的とするような手段、あるいは自然に影響を与えることで、それと不可分になってしまう技術という状況を描き出している。これってまさにポストモダンじゃないの。

で、ナンシーが提唱するのは未来について考え「ない」ことである。未来を指向するのではなく、徹底的に現在を指向すること。これは僕の理解では、来るべき未来という一つの理想を措定したときに、そこから漏れだす無数の可能性を縮減してしまうことが問われているのではないかと思う。逆にナンシーは「現在において思考すること」を問う。自らの目的が現在において、あるいはその存在において果たされている状態を常に実現すること。我々にできることはそれしかないし、その「現在」においては今と終わりが結びつく。というようなことを読むにつけ、やはりナンシーもニーチェ派なんだな、と感じた。これって永劫回帰ですよね。

書きたかったのはそれだけ。

Tuesday, November 13, 2012

アラザル vol.8

アラザルvol.8、完成しました!

2012/11/18(日)、第十五回文学フリマで初売りです。ブースはオ-33。

僕は「芸術/音楽、そして世界と主体」というタイトルで書きました。1回では書ききれなかったので、初の連載になりました。音楽論/即興論のようなものを書こうと思っているのですが、今回はまだ前フリ段階。ほとんど音楽以前の芸術論のようなものを書いています。

またいくつかの書店での販売もありますので、追って連絡します。

Saturday, May 05, 2012

アラザル vol.7

アラザル vol.7が完成しました。来る第14回文学フリマで初売りです。

僕はまた音楽、特に弱音系の作品について書いています。多分読み易いと思いますので、ぜひ。タイトルは『多摩川の日暮れに鳥たちの歌が青く染まるのを聴く』です。

アラザルメンバーによる論考の他、現代音楽の作曲家である鈴木治行氏と、ラッパーグループ・パブリック娘。のインタビューを掲載しています。

文学フリマの会場は流通センターの「第二展示場(E・Fホール)」です。アクセスの詳細はこちら。会場内のブースは 「オ-38」です。

Saturday, April 07, 2012

Pina 3Dと写真美術館

いつもなら土曜は昼近くまで寝ていることが多いが、今日は映画を観に行くために普段より早く起きた。朝から快晴。まだ寒さが残っているものの、冬の鋭さに比べれば格段に緩やかになった。今日は新宿のバルト9に『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を観に行く。これが朝9:30と夜21:10と23:45の回しかなく、夜でないとすると早起きするしかないのである。

映画はコンテンポラリーダンサー/振付家のピナ・バウシュの追悼ドキュメンタリーで、なんと3D上映ということでとても楽しみにして観に行った。で、いたく感激してしまった。コンテンポラリーダンスを自然光の下で観る機会なんて僕は持ったことがないが、本作では映像作品であることを生かしてロケ(という言葉でよいのだろうか)で撮影したシーンが多く、そしてそれらが極めて美しい。さらに3Dであることでロケでの臨場感が強まっている。劇場での撮影でも、群舞のリアリティーも3D撮影ならでは。

もう少し感想を書こうかと思ったが、続きはアラザルでレビューしようか。とにかく、本作はぜひ劇場で多くの人に観てもらいたいと思った。

午後は恵比寿に移動し、写真美術館で今やっている展示を3つ見た。『生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー』展、『幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界』展、『フェリーチェ・ベアトの東洋』展である。書いた順に観たのだが、映画を見た後にはしごすると堀野正雄展の途中あたりで結構疲れた感じになってきた。お茶でもしようかとも思ったが、閉館までの時間に余裕がなく、ベアト展に突入。しかし実はあまり期待していなかったこのベアト展が存外に素晴らしく、最後は疲れを忘れてまた没頭できた。展示されているのは(というかベアトが活動したのが)写真術の初期、1860年代あたりの作品なのだが(ドアノーの約100年前!)、驚くほど完成されている。日本の写真が多く展示されているが、どの写真も美しい。

今は映画の後に新宿で購入したカエターノの近作(といっても2006年)『cê』を聴いている。カエターノは歳をとらないなあ。相変わらずのびやかな歌声と、ソリッドなギター。よいアルバムです。

Tuesday, March 20, 2012

最近の仕事と読書

ここのところ、なかなかに仕事が忙しい。新しいWebサービスを開発していて、近々ベータとして公開する予定でいるのだが(クローズドなもので、残念ながらここでお知らせする類いのサービスではない。)、初期に作ったまま放ってあった未熟な部分が今になって目につく。そもそも基本機能として不足する点もあるが、それはこれから積み上げてゆくしかない。

公開するのに伴って、UIのデザインも詰めていかないといけない。本来、我々の会社としてはレイアウトやデザインは専門のデザイナーに委託するのだが、今回、当面のデザインは自分でしている。これも完成度が低いものが残っているので、これから最低限の作業が必要である。これはこれで楽しい作業でもありつつ、しかしなかなかに時間と体力を使う。

今年に入ってからはこの仕事の関係もあり、珍しくIT関連の本を何冊か読んでいた。だからあまり縦書きの文芸書を読む時間がとれていなかったが、今は少し前に高田馬場のブックオフで買った中井久夫のエッセイ集、『記憶の肖像』を読んでいる。それぞれとても短い散文が集められているが、どれも非常に美しい文章である。旅行の回想などが多いが、言葉の端々からまなざしの細やかさが伝わる。

ちなみに中井久夫を読もうと思ったのは、ひとつにはずいぶん前に佐々木中氏がジュンク堂新宿店のブックフェアで紹介しているのに興味を持ったからだが、もうひとつ大きな点としてはアラザルの山本君がvol.6で言及しているのを読んだからだ。山本君は精神科医としての中井久夫を読んでいたが、『記憶の肖像』では残念ながら直接精神科的な文章は今のところ出てきていない。そのうち別の著作も読んでみたいと思う。

Tuesday, January 31, 2012

"Toy Room" from Chick Corea / The Song of Singing

Chick Corea / Song of Singing

Chick Corea / The Song of Singing

Chick Corea(p) Dave Holland(b) Barry Altschul(ds)
1970, BlueNote

ジャズ、こと65年あたりのモードジャズが一通りやり尽くされてフリーやらエレクトリックやらが実験されるようになる時期、アルバム全体はそこまで成功しているとは思えないものの、その中の一曲が一際輝きを放っている例がいくつかあるように思う。

チック・コリアがBlueNoteに1970年に録音した『The Song of Singing』もそういったアルバムのひとつであり、そして冒頭に収録されている『Toy Room』という曲がその輝きを放っている曲ということになる。最近CDを整理していて久しぶりに聴いてみたのだが、やはりこの『Toy Room』が美しいのでそれ以来何度か聴き返している。

1970年と言うと、チックはアンソニー・ブラクストンとのCircleというバンドを結成し、いくつかのアルバムを発表している。これはいわゆる前衛派であるブラクストンとのコラボレーションであり、大きくフリーに触れた内容らしいが、これはかなりの失敗作というのが世間の評判。僕は残念ながら未聴だが、チックとブラクストンという(今思うと)異色の組み合わせには興味をそそられる。

本作『The Song of Singing』もそういった当時のチックの問題意識を反映して、研ぎすまされた空気感を漂わせる演奏が続くが、少しフォーカスが絞れていないと言うか、聞き所が少ない印象がある。

しかし冒頭に収められているデイヴ・ホランド作の『Toy Room』は、まさにトイピアノで演奏しているかのように軽さのあるタッチとリズムで演奏される短いテーマと、断片的なフレーズと和音を飛散させていくようなアドリブがなかなか絶妙で、この1曲のためにこのアルバムを買ってよかったと思わせるに足りる。

ただし。本作の数年前に発表している『Now He Sings Now He Sobs』のほうは全編充実した内容であるから、もしこちらを未聴の場合はこちらから聴くのが正解。

Sunday, January 22, 2012

円城塔『道化師の蝶』 芥川賞を受賞!

アラザル vol.2でもインタビューさせていただいた円城塔さんが『道化師の蝶』で芥川賞を受賞されました。円城さん、おめでとうございます。

受賞作は、というか円城さんの作品はいつでもそうですが、物語とは、書くこと、読むことが、単に文字を書き付けるということ以上に、それを書き、読むと言う動作と、それに伴う効果の中にこそ存在しており、そしてその効果の中に存在している作中人物とのコミュニケーションはあり得るのか、というようなテーマ系を持っています。そしてそれは人の認知限界を超えたところに存在するかもしれない、未知なる他者とのコミュニケーションの可能性を探る、野心的な試みでもあります。

ちなみにこの作品は旅の間に読まないと効果のない小説とはどんなものか、というような記述で始まるのですが、私はちょうど海外旅行のフライト中に読んでいたのでとても印象に残っています。作中では東京—シアトル間の飛行の場面から物語は始まります。

現時点での円城さんの最新作は『群像』2012年2月号に発表された『松ノ枝の記』ですが、これもやはりテーマとしては同様のものだと思います。というか、さらにそれを押し進めた作品だと思いました。そして様々に学際的なディテールが詰め込まれながらも感動的な読後感があり、こちらもぜひ早期に単行本化すべきだと思いますし、無論そうなるでしょう。こちらも是非多くの人に読んでもらいたいところです。

ちなみにアラザルvol.2でのインタビューは現時点で読めるインタビューの中で、特に充実したものだと思います。HEADZのWebストアで取り扱ってもらっていますので未読の方は是非。

ちなみに上の写真はインタビューで単行本にもなっている『烏有此譚』について、作品の構造を説明してもらっているときのもので、ノートにある図形は小説のプロットだそうです。ユーモアが伝わるでしょうか。

Thursday, January 12, 2012

エントロピーについて/佐々木敦『未知との遭遇』

佐々木さんの『未知との遭遇』を読んでて、やっぱり価値基準として同意できることが多いなあと思っているのだけど、「エントロピー」って言う言葉をよく使っている箇所があり、しかしこれは明らかに言葉を誤用しているので指摘しておこうと思います。

まずエントロピーの逆の概念として、エネルギーというものがある。エネルギーは誰でもが体感としてわかっているもののはずで、たとえば温度が高いものとか、高速で移動している車とかは、低い温度のものや止まっているものに対して高いエネルギーをもっている。逆に氷なんかはとても温度が低いので、エネルギーとしては小さい。

これに対してエントロピーというのは、こういったエネルギーが高い状態とか低い状態とかが様々に分離している状態では低くなり、それらが渾然一体となった時には高くなるような量であって、エネルギーが低い状態のことをいうのではない。よく言われる例では、コーヒーとミルクが分離している状態と、混ぜられてミルクコーヒーになった状態とでは、エネルギーの総和は同じだが、混ぜられた状態の方がエントロピーは高くなっているわけである。また、コーヒーとミルクを一緒のコップに入れておいて、自然に混ざることはあるが、逆に混ぜられたミルクコーヒーがコーヒーとミルクに分離することはない。つまりエントロピーは常に増大し、減ることはない。ちなみにこれを「熱力学の第二法則」という。この辺りはたしか高校の物理で習います。大雑把にいえば、いろいろな物事があちこちで高かろうが低かろうが大きなポテンシャルをもっている状態を「エントロピーが低い」状態といい、逆にすべてがならされてどこにも特徴がないような状態を「エントロピーが高い」状態という。

で、件の『未知との遭遇』に出てくる「エントロピー」だが、例えばこんなふうに使われている。

このように、たとえ世間一般からしたらマイナーな世界でも、その中で激しいエントロピーが蓄積されると、あるきっかけで一挙にブレイクし、いつのまにかポピュラーになってしまう、という現象が起こり得る。p.93

これは明らかにネガティブなエネルギー、つまり負のエネルギーが高い状態を表現している。したがってこれはエントロピーの低い状態であって、語の誤用である。激しいエントロピーは爆発などしない。というか激しいエントロピーという形容は成立しない、と言い得る。それは事物が徹底的に平均化してしまっていて、何事も生起しない状態のことだからだ。エネルギーの附置(物理ではポテンシャルフィールドといいます)に濃淡があれば、そこに変化が発生し、事件=ハプニングが生じる。ここでこそジョン・ケージの出番があるわけですね。そしてこのような状態を、エントロピーの低い状態と呼ぶわけである。しかし、先に引用したのはオタクたちの内輪的なネタの消費行動の加速=炎上などの現象などを論じている箇所だが、仮にエントロピーが高くなるとすれば、それは対象のネタが消費し尽くされ、極めて「普通」のことになって誰も議題にすらしなくなったような状態をいうはずであり、だからこのようなブレイクを起こしうるのは極端に大きい負のエネルギーでしかありえない(正とか負とかにはこの場合特段の意味はないが)。

では逆にオタクたちはなぜこのようにエントロピーの低い状態を容易に生成しうるのか、というのはまた別の議論として成立し得るだろうが、ここでは立ち入りません。

そういえば、『即興の解体/懐胎』のときも使われている集合論の記述ことで何かおかしいところがあって本人に指摘したこともあったが(そしてこのときも意図自体は理解できるものだったが)、結局「そう言う脇の甘いところが僕なんだよね〜」などとかわされたのだった。しかしこういう理系的な言葉を使う場合は、(当然だけど)あまり間違えない方がいいですよ。こういう細かい突っ込みをしたくなりますからねえ、間違いに気がついた場合に。

とはいえ、本自体は非常に刺激的で、特に三日目の本谷有希子とジジェクが登場してくるあたりはスリリングでした。もっとまともな感想などは書ければ別エントリーで。 

Tuesday, January 03, 2012

あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。

昨年はとてつもない年になりました。アラブ民主化の流れが勢いを増していく中、日本では地震が起こり、1000年に一度の津波に見舞われ、原発が爆発しました。ギリシャの経済危機からヨーロッパの経済が崩壊していく中、被災した日本の通貨は値上がりし、ビン・ラディンが死に、カダフィが死に、金正日が死にました。

また、幾人かの知人が結婚し、別の幾人かには子どもが生まれました。会社を辞めて独立したり、海外の大学に研究をしに行ったりした知人もいました。

私はレーシック手術を受け、秋に前の家の近くに引っ越しをし、リビングにはもらいものの大きなテレビが鎮座するようになりました。アラザルにはなんとか二回原稿を書きました。

無数の出来事の急襲を受けた2011年ですが、やはり地震の2011年ということになるでしょうし、だから来る(というかもう来ていますが)2012年にはポスト震災としての様々な事物があらわれてくるでしょう。

だから2012年は、「先を見通すことはできない」という前提からのスタートにならざるを得ないと思いますが、だから目標くらいは持っておきたいところです。それはここで公表するようなことでもないので控えますが、善かれ悪しかれ、自己責任論が強まってくるのは必至だと思いますので、いつでも自分と家族くらいは守れるように精進したいと思います。

いつも言われていることですが、しかし経済/通貨不安と震災の影響で、かつてないほど、この「先の見通せない」状態の年明けとなりました。しかし被災地の詩人、和合さんは「明けない夜はない」と繰り返しています。それは多分、無闇/無根拠に明るい社会を信じることではないでしょう。むしろ生活することの自明性が縮減していく社会になりつつあるようにも思えます。それでも、つねに先に進むことはできるし、むしろそれしかできないのだ、ということでしょう。

それでは、2012年が皆様にとってよい年でありますように。今年も宜しくお願いいたします。