Sunday, December 22, 2013

さようなら、ホールじいさん

僕の会社のオフィスの出入り口のあたりには、映画や美術展なんかのパンフレットを置くスペースがあって、そこにはよく東京Blue NoteやMotion Blueのものも置かれている。先日もMotionBlueのパンフレットがそこにあり、表紙の写真にはジム・ホールとロン・カーターが写っていた。もちろんどちらも言わずと知れたジャズ・ジャイアンツである。

数年前に彼らが来日してブルーノートに出演したときは見に行くことができたのだが、今度もまた来日するのか、と思ってそのパンフレットと手に取ると、挟まっていた白い紙がひらりと滑り落ちた。オフィス用紙にプリンターで印字されたその紙には、「某年某月、ジム・ホール氏が自宅で亡くなりました。公演は中止となります。慎んでお悔やみ申し上げます。」というようなことが書かれていた。

僕は大学時代にジャズ研でギターを弾いていた。もちろんウェス・モンゴメリーやケニー・バレル、グラント・グリーンといった黒人ギタリストの張りと密度のあるサウンドとブルージーなフレーズは、まさにジャズギターそのものであり、それはそれで素晴らしいと思って聴いていた。しかし当時から絞り込んだトーンが鼻にかかったようでぼんやりとしており、ギターというよりは真空管がなっているような独特のサウンドで、複雑にハーモナイズされたバッキングとソロを聴かせるジム・ホールは特別な存在だった。中でもポール・デスモンドと共演している一連の作品は、洗練の度合いにおいて飛び抜けている。

前回の来日のときには、ロン・カーターはまだまだしっかりとしていて安定感が感じられたが、ジム・ホールは既にヨボヨボだった。しかしそのヨボヨボのホールじいさんは、はっきり言ってほとんど脳を使わずに演奏しているように見えた。ロン・カーターのベースに乗り、加齢によって(少なくとも瞬間的には)おそらく論理的な思考がほとんど不可能になった老人は、即興する機械と化してギターを弾いた。長年の演奏の積み重ねによって、まさに身体に蓄えられた反射神経のみによって演奏されるジャズ・ミュージック。僕はそのとき、昆虫が刺激に反応するようなアドリブだと思った。

さようなら、ホールじいさん。あなたなら天国ででも演奏できるでしょう。どうか安らかに。

Tuesday, December 10, 2013

オーディオ届く

オーディオショップをいくつか回って、先日CDプレーヤーとプリメインアンプを購入。翌日には届いたので鳴らしてみると、想像よりもさらに少しいい具合で、とても嬉しい気持ちになりました。店員さんに色々相談しながら試聴した結果、どちらもMarantzになった。CDプレーヤーは新品でプリメインは中古。あと家に親から譲り受けたまま眠っているパワーアンプがあるので、そのうちこれも使うようにしようかと思っている。新しく買ったもののセッティングしている最中にこっちも鳴らしてみたら良い感じだった。ただ今はちょっと置き場に難があるので、時間があるときに工夫しないといけない。

しかしやはりオーディオは怖い世界で、ケーブルにも中古品があって、今回のぞいた中でも100万超えるようなものも平気で売られていた。発売時は300万位したようだ。店員さんの話では、10年前くらいにケーブルにこるのが流行ったらしく、そのころは10万超のケーブルがバンバン売れたらしい。

しかし普段iPhoneでやっすいイヤフォンでしか聴いてなかった音源とかを今回購入したシステムで聴いてみたが(ちなみにビヨンセ)、もの凄い情報量が多くて驚く。あと奥行き感と空気感みたいなものがやっぱり違うなあ。

とはいえ、ここからさらに音が良くなるイメージは、うーんたしかにあるのかもしれないが、そのために今回の何倍とかお金をかけるところまでは、今の時点では想像できないかな。どうだろうなあ。たしかにスピーカーとかはよいものを見つけたら欲しくなりそうだけど。。

テッド・チャンは読了し、今はアーレント『過去と未来の間』を読み始めているが、やはり時間があまりとれていないのでもの凄くゆっくり読み進めている。アーレントは『人間の条件』しか読んだことがないのだが、『過去と未来の間』もやはり公的な存在としての人間を扱っていて、どうもどの著作にも凄く一貫したテーマを持っているらしいことがわかる。しかし今年中に読み終わるかな。

Sunday, November 24, 2013

近況

相変わらず超久しぶりの更新ですが。

今更、テッド・チャンデビュー。短編集『あなたの人生の物語』を読んでいるけど、なにこれ超面白い。特に表題作。言語SFと言われるだけはある。読んだ後にヴォネガットのスローターハウス5と同じような問題設定でもあるよなあと思ったら、作者の解説みたいなページでも同作に関連する記述があった。強い運命論と言うか。ちなみに佐々木敦『未知との遭遇』の主張もそういうところがある。

そういえば少し前に新橋の駅前で古本市をやっているのに出くわし、アーレントとか何冊か見つけて買ってあるのだけど、なかなか読む時間が取れない。しかしこのときは結構リーズナブルな価格だったので見つけて気分が良かった。

ところで、今使っているオーディオの調子が悪いので、CDプレーヤーとアンプを買い替えようかと思っており、新宿のオーディオユニオンまで物色しにいく。

しかしオーディオ、これまた胡散臭い世界ではあるよなあ。今回いくつかCD持ち込みで視聴させてもらったけど、僕は全くこれまでにこだわってこなかったのでよく事情がわからないとはいえ、感覚としてはスピーカーが決まったら音はほぼ決まっている気がするし、2万円以上のプリメインを使っていたら何となくそれなりの良い音がするように感じる。これをさらにグレードアップすると、確かに音の分離性とか、いわゆるHiFiな感じは出てくるのは少しはわかるけど、それが「良い音」であるのはこれまでにそういう文脈が出来上がっているからで、必ずしもそれが普遍的な美である訳ではないよなあ。と当たり前のことを感じてしまいました。いや、高いアンプがよいのはわかりますよ、多少は。そして多少はまともなものを買おうかと思っていますが。(こう書いても全く価格帯が想像つかないのがオーディオの怖いところですなあ。)まあ全て素人の意見です。

オーディオユニオンを覗いたついでに、隣のクラシック館に立ち寄る。少し前に話題になっていたジョン・ケージのピアノ全集(18枚組)を見つけ購入。他にブーレーズ関連の6枚組と、同じくブーレーズの『SUR INCISES』を買う。この『SUR INCISES』をさっき聴いていたが、凄まじく明晰な音響だった。こういう風になっていると、素人的にはもう調性とかそういうことは全く気にならなくなる。専門家がどう聴いているのかはちょっとわからない。しかしすこぶる刺激的。

Sunday, March 10, 2013

そんな日本語はない

よく「そんな日本語はない」ということを言う人を見かけますね。例えばファミレスで「〜でよろしかったでしょうか」などと言われることに苦言を呈しているわけです。しかし「そんな日本語はない」なんて、その言葉遣い自体が日本語として破綻してませんか。「その言葉遣いは日本語としてふさわしくない」ならわかりますよ。せめて「そんな日本語の使い方はおかしい」でしょう。そもそも「そんな日本語はない」というときの大文字の「日本語」なんて、どうやって定義しているんでしょうか。いや、それはもちろん日本語に大文字なんてありませんから、これはレトリックですが。「そんな日本語はない」という言明は、明らかにクリアでリジッドな「正しい日本語」の存在を前提としています。しかし参照が古典的すぎるかもしれませんけれどもソシュールの語彙を使うとすれば、元来言葉は通時的に見れば当然変遷するものですから、定常的な日本語なんてそもそも存在しない。とはいえ現代の正しい日本語を求めて共時的に見れば、すでにそのような日本語が流通してしまっている以上、現在の日本で使われている言葉を認めなければコミュニケーションは成立しません。だって「そんな日本語はない」って言っても意味はわかっている訳でしょう? いや、もちろん言いたいことはわかりますよ。だからそれは「その言葉遣いは日本語としてふさわしくない」っていうことなんでしょう。その気持ちはわかりますし、そういいたくなる心情にも同意できます。でもそれを「そんな日本語はない」と表明してしまうその心性は、自分の考えている正しさがどこでも通用するという幻想の上に成り立っていることに完全に無頓着なんじゃないでしょうか。いや、まあ僕が最初に言いたいと思ったのは、「そんな日本語はない」なんて言うくらいならもう少し自分の言葉遣いも考えたら如何か、ということだけです。最近気になった訳でもないのですが、ふと思い出したので書きました。