Thursday, November 10, 2011

さらば青春の光

ずいぶん長いこと、あなたとは一緒だった。

どこへ行くときも、いつもあなたはわたしのそばにいた。
だから、あなたがそこにいること自体、当然のことだと思っていたし、そんな意識さえないままに暮らせるぐらい、空気ほどにも身近な存在だった。
だから、今までわたしが自分で見ていると思っていたようなことも、実はぜんぶあなたを通して見ていたんだってことには、ようやく今頃になって気がついたんだ。
そして、あなたといる世界が、すべてではないっていうことにも。

あなたといた時間はもうすっかりわたし自身の一部になっているし、いま、あなたなしで出かけてみると、まわりの人もあなたがいないことについて訊いてくる。そう言われるたび、あなたがどれだけわたしという人間と溶け合っていたかって、思い知らされる気がする。

でも、あなたなしで見る世界は、やっぱり今までとは違って見えるよ。
あなたが私に見せるために用意してくれた枠の外側にも、こんなに広い視界が広がっているなんて、まあ、知ってはいたけどさ、やっぱりすごく新鮮に感じる。 だからこれからは、あなたなしでもわたしはやっていけるっていうことを、自分で確かめていこうと思う。それはさみしいことだけど、前進だと思ってる。

これまでどうもありがとう。
あなたのことは忘れない。


というわけで、レーシックしました。
さようなら眼鏡。

Thursday, November 03, 2011

アラザル vol.6

アラザル vol.6、完成しました! 本日11/3(水)の第十三回 文学フリマで先行発売します。

  • 日時:11/3(祝)11時〜16時
  • 場所:東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)
  • ブース:アラザル カ―19
  • 価格:500円

僕は今回、「管理/邂。逅」というタイトルで、軽いエッセイを書きました。 とはいえ、テーマは記号と美学でしょうか。そんな大したものではないのですが。 ぜひお手に取っていただければ。 アラザルのブログで、冒頭の一部が引用されているので、ここでも紹介しておきます。

あるとき、僕は仕事でプログラムを書いていた。そして一通り区切りがついて、今書いたプログラムの動作を確認すると、画面上に「邂。逅」という文字が浮かび上がった。「邂。逅」? 僕はプログラムの中にそんな言葉を入力していない。しかも、真ん中にある「。」はなんなんだ。まったく想定していなかった言葉に襲われ、僕の視界にチカチカと火花が瞬いた。豆鉄砲をくらった鳩よろしく、思考が一瞬途切れる。もう一度ディスプレイに焦点があうと、改めてこの謎の言葉と向き合い、小さく笑う。そして「なんだこれ」と呟いた。ちょっとむずかしくて、口語では滅多に使わないこの「邂逅」という言葉。そこに足をもつれさせる小石のように転がる句点。脱臼させられた厳めしさのような、ちょっとシュールな光景。

書店等での取り扱いについてはまた告知します。よろしくどうぞ!

Tuesday, October 25, 2011

miles davis / milestones

会社からの帰路で、久しぶりにマイルス・デイヴィスの『milestones』を聴いたのだが、これが良かったなあ。大学時代は表題曲以外はそんなに好きではなかったけど、なかなかどうして、他の曲も素晴らしいじゃないの。

全体的にアップテンポの曲が多くて、リズムセクションのサポートが素晴らしいんだと思うけど、とにかく全編グルーヴしてる。学生のときはFour & Moreとか聴いた後だったから、ああいうモードバリバリのものが聴きたかったんだけど、こういうハードバップもいい。まあ、マイルスつかまえていいねもなにもあるか!つう話ではある。

でもやっぱり改めて聴くと表題曲は好きだなあ。逆に一般的には、この曲はマイルスがモードジャズを最初に導入したと言われていて、よくそのマイルスのソロは流石だけど、キャノンボール(とコルトレーンも)がモードのコンセプトを理解していない、という評判を耳にする(これは『カインド・オブ・ブルー』のときも同様)。まあその後のモードジャズの展開を知った上で聴けば確かにそうだ。それまでの複雑なコードチェンジから離れて、モード一発、つまりコードによる展開が皆無であることがコンセプトの曲であるはずなのに、コードチェンジ風のフレーズが随所に出てくる。まあ間違いなくキャノンボールは単一のモードというスタティックな状態に我慢できなくなって、思わず展開してしまったんだろう。高校生ギタリストが早弾きしちゃうみたいなものだ。そしてそもそも、キャノンボールのファンキーで張りのある音色が、クールなモードジャズにあまり似合わないという面もある。でも、そういうコンセプト云々といった前提抜きで彼のソロを聴いてみれば、なかなか上質のジャズじゃないですかね。あの音色でまさにスイングしていくフレーズのダイナミズムは、流石キャノンボール。そもそも僕、キャノンボール凄い好きだからなあ。意外に思う人がもしかしたらいるかもしれないけど。

しかし、amazonの紹介文、ちょっと面白すぎる。「ジョン・コルツレイン」やら「ポール・シャンバーズ」、「ビーポップ」なんてのもあり、果ては「『ストレート・ノー・チェイサー』でコルトレインは、大胆に和声のソロを、アダリーはトラネのスーパーソニック風を受け継いで、シャンバーズはかっこいいソロでまとめてくれる。」だと。「アダリーはトラネのスーパーソニック風」! なんだこれ。まあ「トラネ」は多分トレーン(コルトレーンの愛称)のことだけど。マイルスのアルバムくらいちゃんとした解説いれられなかったのかねえ。

以下、紹介文引用

1958年、デイビスはサクソフォン奏者のキャノンボール・アダリーとジョン・コルツレイン、ドラマーのフィリー・ジョウ・ジョーンズ、ベース楽器奏者のポール・シャンバーズとピアニストのレッド・ガーランドと出会った。ジャッキー・マックリーンの「ドクター・ジャッキー」と、ジョン・ルイスとディジー・ジレスパイの「ツー・バス・ヒット」と、セロウニウス・モンクの「ストレート・ノー・チェイサー」などのビーポップとブルース調懐かしい曲が収録されている。アルバムの流れとしては、名作の「マイルストーン」で未来に向けて進んでいき、次にその流れで歴史的な『カインド・オブ・ブルー』がくる。デイヴィスの曲の「シッドズ・アヘッド」はベニー・ゴルソンの「キラー・ジョウ」と「ビリー・ボーイ」の様な、なめらかで美しいリズムだ。ガーランド シャンバーズと、ジョーンズ、そしてアーマド・ジャマールが共演している。このすばらしく再度録音された盤は、「ツー・バス・ヒットでのジョンのふらふらしたリズムと、デイヴィスのしっかりとした歌詞が上手に融合されている。「ストレート・ノー・チェイサー」でコルトレインは、大胆に和声のソロを、アダリーはトラネのスーパーソニック風を受け継いで、シャンバーズはかっこいいソロでまとめてくれる。このアルバムは一流なグループがこの世に出した一流な作品だ

Wednesday, August 17, 2011

GoogleのMotorola買収について

GoogleがMotorolaを買収した。あくまでクラウドサービス、つまりはWebアプリケーションに特化した企業であるGoogleが、ハードウェアメーカーを買収したことには、大きな驚きがある。

今回の買収、一見、GoogleがiPhone流の統合型モバイルデバイス開発を進めるための行動のように見えるが、やはり、Googleの主要な収入源が広告であることを考えると、今回の買収の意図は、よりAndroidの価値を世の中に伝えるためにMotorolaにNexusシリーズのようなフラッグシップモデルを作らせることにあるように思う。もちろんその結果として、Motorolaの端末が沢山売れればそれはそれでよいが、Techcrunchの記事が指摘している通り、ある一定以上のシェアの端末で最新のAndroidが動作するという事実が作る、他のAndroidベンダーへのバージョンアップへの圧力は、Googleの考えるUXを、より迅速に世に広める助けになるだろう。Motorolaは今後、このようにAndroidがもつポテンシャルを最大限に発揮するような端末を作ることに専念すればよく、もちろんシェアを落とすことは避けなければいけないものの、端末販売自体が収益に結びつかなくても構わないことになる。Googleとしては端末からの収益を上げることよりも、Androidのシェアを拡大することの方が現時点での優先順位は上だろう。おそらくMotorolaは今後、アーリーアダプター向けの上位機種をメインに開発していくことになるのではないか。それによってAndroidの最新の機能をいち早く、しかもGoogleの設計意図通りに世に送り出すことができるからだ。しかし、もしこれからGoolge+Motorolaの端末が成功して一躍Google + Motorolaが(単独でiPhoneに迫るような)巨大携帯メーカーに躍り出た場合には、各Android端末メーカーたちにどのような影響を与えるのかが気になるところだ。

今後のシナリオを、よいのと悪いのと考えてみる。

よいシナリオ


Google + Motorolaの端末がAndroid端末のリファレンスとなることで、Androidの標準化が進む。その結果サードパーティーのアプリ開発が促進され、かつ、端末相互の互換性が高まることで、Google marketの価値も高まる。またAndroid全体のシェアの大きさから、主要コンテンツホルダーがGoogle Marketに相次いで出店する。このサイクルの中でGoogleは広告収入とともにマーケットからも高収入をえることができる。

悪いシナリオ


先端の端末をGoogle + Motorolaが開発、販売を行うことで、その市場で他のAndroidメーカーが対抗しづらくなる。結果、それらのメーカーはよりコンシューマー向けの製品開発をするが、競争が激しく利益が上がらないため、Androidからフォークした独自のOSを開発し、差別化を図ろうとする。この時、Androidとのアプリの互換性がうたわれるが、結局Android陣営の分断化が進む。さらにSamsumgのような大手は独自のマーケットとOSを開発してAppleに対抗しようとし、共倒れとなる。

Saturday, June 11, 2011

アラザル vol.5 完成



アラザル vol.5、完成しました。
2011/6/12 の文学フリマで初売りです。

日時:6/12(日) 11時〜17時
場所:大田区産業プラザPiO 小展示ホール
ブース:アラザル イ-08
価格:500円


今後、いつものように書店に展開すると思います。
雑誌は今回、vol.2やvol.3と比べると読み易いサイズになってますので、ぜひ。

僕は今回は地震と菊地成孔さんについて交えながら書きました。アラザルのページにも載せている箇所を紹介します。

「喪中のワルプルギス」
それは得体の知れない幽霊たちが一斉に広がり、不安の振幅を共振によって増幅させながら伝播していく、不可視の津波であるだろう。そしてそれはメディアにのって広まった幽霊たちの夜の祭りである。


あとタイトルページもサービスで。

Friday, March 18, 2011

3.11 大震災に際して

2011年3月11日、金曜日。あの恐ろしい地震が日本に到来した。地震は東北の街を破壊し、津波が海岸の街を壊滅させた。これらの災害のため、福岡の原子力発電所は爆発を伴う大事故となった。そしてあれから今日で1週間が経つ。被害状況は交通が遮断されたことによる流通の寸断、そしてそれに伴う生活必需品の不足などによって、一段と深刻化している。原子力発電所の一連の事故は解決せず、今も懸命の復旧活動が薦められている。このエントリーでは、しかし、被災者のためとか、東京やその他の比較的被害の少ない地域に住んでいる人のためとかではなく、この未曾有の災害の渦中で、私が見て感じたことを少しでも記録しておくことを目的としようと思う。

* * *

地震が発生したとき、私は会社のオフィスにいた。私のオフィスは、フロア貸しをしている川崎のオフィスビルの14階にある。新聞などで多くの人が書いているように、そしてそもそも多くの人が体験したように、地震は暫くは震度3程度のものであるような、比較的穏やかな揺れ方をしていた。私は同僚と顔を見合わせて、あ、地震だね、といった会話をしたと思う。しかし揺れはじめてから30秒くらいだろうか、地震は明らかにそれまで体験したことのあるものとは違う、激しい揺れ方に変わっていった。その時私は自席で一般的なオフィス用のローラー付きの椅子に座っていたが、体が左右に暴力的に揺すられ、座っていながら体を固定するためにパーティションにつかまらなければならなかった。揺れは長く続いた。揺れる間に、ビルの警報が鳴り、自動音声でまず震度4を観測した、とのアナウンスがあった後、さらに震度5を観測した、とのアナウンスが流れた。フロアの一部にある防災用の自動扉が、無機的に、そしてだからこそ深刻な響きの機械音をたてて一部の窓ガラスを塞いだ。(実はこの動作にどのような意味があるのか、よくわからないのだが。)14階のオフィスは、想像以上にしなって揺れる。窓から見える向かいのビルが、信じられないくらい左右に動いている。幸い、揺れが収まったとき私たちのオフィスに目立った被害はなかった。多くの同僚がすぐに家族の安否を確認しようとし始めた。私も妻と両親にまずは電話連絡を取ろうと試みたが、既に回線はパンク状態であり、つながることはなかった。しかしeメールでの連絡は(地震発生から暫く経ってからだったが)とれることがわかり、家族の安否に問題が無いことはすぐに突き止めることができた。(これによってインターネットという分散システムの強度を身をもって知った。)その後は多くの人たちと同様、私もネットニュースやTwitter上で流れている情報に釘付けとなった。ニュースではすぐに東北で震度7強を観測したとの情報が入り、私たちは騒然となった。Twitterでは各地での状況(とはいえやはり東京の情報が多い)が次々と流れ込んできた。しかしなにより衝撃だったのは、会社にある携帯電話のワンセグから見た津波の様子である。オフィスの状況を確認し、一段落ついたかと思った時には、既に東北の街は津波によって壊滅していた。ライブ映像では濁流となった津波が、田園を破壊していく。さらに、ヘリコプターからの映像は次の津波が海岸線に迫ってきていることを映し出している。このときばかりは、絶望的な気持ちにならざるを得なかった。

*

地震の後、私を含め多くの人は5時半の定時まで仕事をして、ネットで帰りの電車が終日運休となることを知り、家の方向の近い数人で固まって帰路につくことにした。しかしこの期に及んで就業時間を守るのも、思考停止というか、今考えると逆に冷静な対応ではなかったような気もする。とはいえ、やはり交通状況がどうなるかは、これほど大きな地震を体験したことのなかった私たちの多くには不明であり、判断が遅かったのも致し方なかったのかもしれない。私たちはまずタクシーに乗り合わせて帰宅することにし、既に長蛇の列となっていたタクシー乗り場の行列の最後尾に並んだ。あの日、日の沈んだ東京(というか神奈川だが)は寒く、私たちはコンビニでかろうじて売っていた温かい鶏の唐揚げなどをつまみながら列が進むのを待った。私は風と寒さを少しでもしのごうと、コートのフードを被り、ポケットに手を突っ込んで風に背を向け、じっとしていた。私たちは恐らく2時間くらい待っていただろうか。列は恐らく少しでも進んでいることを感じようとする集団心理によって、それぞれの人が前の人との間隔を狭めることでじりじりと進んで入るのだが(それも笑える話だ)、実際にはいっこうにタクシーは到着しない。どうにもタクシーを捕まえることはできなそうだと判断した私たちは、少しずつでも徒歩で帰り、あわよくば路上で空いたタクシーを見つける方がよいだろうと考え、せめて少しでも進むことのできるバスを見つけて乗り込み、その終点から歩きはじめた。バスを降りてから私たちが通った道は停電はしていなかったが、やはり電車による帰宅が困難となり、茫然としつつももはや徒歩での帰宅に覚悟を決めた人たちが、電車の沿線の通りを連なりになってゆっくり流れていた。早々に閉店しているコンビニもあれば、11時を過ぎて営業しているイタリア料理店もあった。そして、会社を出てから後、タクシー乗り場も含めて帰路で見かけた人々は総じて冷静だった。私たちはその後、徒歩でなんとか車をもつ同僚の家までたどりつき、そこから私は自宅まで車で送り届けてもらうことができた。私が家に着いたのは深夜の0時半頃のことだった。妻は私のために食事をとらずに待っていてくれた。それから二人で食事をし、絶望的な震災のニュースを見て、私たちは眠った。

*

そこから先、今日までにどのようなニュースがあったかを繰り返すことには意味はないだろう。これはあくまで個人的な体験の記録だ。だからそういったニュースのうち、幾つかについて考えたことを思い出してみよう。とはいっても、おそらくこれから記載することの大部分は既に多くの人によって書かれたのと同じないようであるだろうし、また読者の方々自身も感じられていることと思うが、ご容赦願いたい。

まずやはり最初に感じたのは、この未曾有の危機に際した日本国民の、モラルの高さだ。パニックがないとは言わない。都心での物資の買い占めはまさしく唾棄すべきパニックだし、疎開するのしないのと言った議論は、ほとんど議論として成立していない。しかし相互に助け合いを呼びかけ、スーパーが入店制限をすれば整然と列をなし、平日の朝に鉄道が止まるとなればバスや自転車で会社に参じる日本人は、やはり規律を守ることの美徳を身体化しているのだろう。また義援金や援助物資を集め、被災地に送ろうとする動きや、ネット上での安否確認のためのツールの整備の速度など、想像を絶する傷を負った日本と言う集合体が、その傷を癒すべく、自己修復的に協調していくさまは感動的と言わざるを得ない。今、日本は日本としてのアイデンティティをもって、復興と言う一つの目的に向かって団結しようとしている。

しかし、やはりこのような状況にあっては、例えば娯楽のようなものが「不謹慎」であるとされる空気が強まるのは当然のことなのだろうか。Twitter上では、このような状況にあるからこそナンセンスなジョークを発したり、あるいは豪奢なディナーをとったことを報告したユーザーに対して、過剰なバッシングが飛び交っているようである。また先ほども少し触れたが、原発事故に関連して東京を離れた人々に対して、臆病者扱いをする風潮さえある。私はこの不寛容の空気は極めて危険だと感じる。これでは復興には全体主義が必要であると言われているようなものだ。先ほどの例のように日本が一つの生命体のようなものなのであるとすれば(そして私はそのようなものとして考えて問題ないと考えているが)、患部からはなれた場所にある個々の細胞は、直接その傷を治癒するために役立つことはできない。しかし、その細胞も生命を生かす上で不必要なのではない。それぞれの細胞が、それぞれの目的に従い、休憩をしながらも、中央の意思すら直接関与することはない活動をすることを通じて、個々の局所的な生態系が、より大きな生命を活動させる。今度の危機に際して、私たちがすべきなのは過度な緊張状態を維持することではない。休憩や娯楽もあった上で、もっとも効率的な方法で患部、あるいは集合体としての全体を修復することである(一としての全体ではない)。

*

その他に感じたことは、さらにあえて書く必要のあるほどのものではない。それでも例示すれば、はやり被災地の窮状には心を締め付けられる思いだ。そして一度テレビで見た、両親を見つけられない子供の嘆きが今でも忘れられない。彼らを救うためにできることは、しかしできるだけ無理せずに、していきたいと思う。そしてそれは気持ちであるよりも、実効的なものであるべきだ。いや、もちろん目に見えて実用的であるだけでなく、被災者、あるいは我々自身の心を潤すような活動だって、それは素晴らしい活動だ。むしろそのような貢献が私にできるのであれば、ぜひそうしたい。私だって、本当に小さな存在だけれども、一応は表現者でありたいと思っている。いずれにせよ、誰にだって今回の震災からの復興に対して貢献することはできる。できることをしよう。しかし、私たち自身が疲弊してはいけない。私たち自身が争ってはいけない。ただ、今は今できることを少しずつ。

Monday, March 07, 2011

Apple, Google, Facebook

iPad 2の発表で、またApple陣営と、Honeycombを発表したばかりのAndroid陣営の比較や対立構造についての記事がネット上に乱立している。製品の評価に違いはあれ、どれも取り立てて新しい主張を展開しているわけではない。大雑把に言ってそれらの主張は、Appleはハードのスペックだけではなく、ソフトウェアとの一体感を背景とする「エクスペリエンス」(しかしこの言葉、訳が難しいとはいえ、外来語のまま扱うのも胡散臭いし、かといって「体験/経験」と訳すのも気持ちが悪い)がすばらしく、またiTunesを含めたプラットフォームこそがAppleの強みであって、そのような環境はAndroidにはない。逆にAndroidはオープンソースであること、またそのようなオープンでリベラルな思想に基づく、いってしまえば開発者にとっての桃源郷というか、自由度が高くどんなことでも実現可能であるかのような共同幻想を与えられており、そのような自由を知ってしまうとAppleの閉鎖性はなんと狭苦しいことか、というわけである。ここまでの認識はもはやステレオタイプであり、しかも別段訂正する要素もない。個人としては、購入したアプリが今後ずっと使えそうであるとか、キャリアに囲い込まれることはなさそうであるとかいった理由もあり(もちろんApple自体に囲い込まれているわけではあるが)、Appleの製品を今後も利用するだろう。

ところで、このApple対Androidの図式は、基本的にFacebook対Googleの図式と符合する。GoogleがWebのなかでオープンネスを推進することにその企業生命をかけていることに異論はなかろうが、このオープンネス、つまりどこからでものぞき見られてしまう広大な空間の中に、外界から隔離され、信頼関係の範囲に限定したゾーニング空間(これはショッピングモールともつながるだろう)を構築した起業こそがFacebookである。もちろん日本におけるmixiなど、Facebookの以前からこのような閉鎖空間は作られてきたが、彼らほどの規模を実現した例はない。こちらのFacebookとGoogleの戦いは、少なくとも短期的にはFacebookの方に分があることは誰しもが感じるところだろう。これはこれまでのGoogleの検索を中心とした情報の流れが、<発信者-Google-受信者>という、出所と受け取り手が明確な関係から、ソーシャルグラフを介したユーザー相互のバケツリレー方式で網の目上に広がっていく、SNS以後の新しいフェーズに移行したことを表しているだろう。このようなネットワークが広がるためには、プラットフォーム自体への信頼と依存が欠かせないが、Webという視点で言うと、この信頼感の獲得競争において、FacebookおよびTwitterが現時点での圧倒的な成功者であることは言うまでもないだろうし、そしてもちろんデバイスという面では、Appleが明らかに先行している。

もちろん、スティーブ・ジョブズのいう統合対分断(Integration vs Fragmentation)という対立軸は、今後も残り、そして時勢によって優劣は揺れ動くだろう。(文脈を外れたら、どちらが望ましいことなのか判断できないだろう。これはそっくりModern vs Post-Modernと読みかえられる。) 少なくとも00年代はGoogleのオープン性が一人勝ちをしていたが、現在はApple/Facebookが勝ち組だ。そして今後の展開は、ソーシャルメディア上を流れる、(動物化した)個々人の欲動が、群としてどのように動いていくかにかかっており、そしてこのなんとも不気味な怪物(サマーウォーズのラブマシーンとは、この怪物のことだろう)の行く末を予見するのは、容易なことではない。

Monday, February 14, 2011

佐々木俊尚『キュレーションの時代』 / ECM



佐々木俊尚『キュレーションの時代』を読んだ。大きく言えば、インターネットの普及に伴い、TVに代表される大手メディアに対するオルタナティブなメディアが発達することで大きな物語が崩壊し、個別的な文化圏(佐々木氏の言葉ではビオトープ)が地理的な制約を越えて接続される、そのようなネットワークがさまざまなレイヤーで輻輳していく現代の時代状況を記述していて、その認識は僕も正しいと思うし、もっと言えば、大きな物語なんてリオタールそのままだし、ソーシャルメディアのネットワークは要はリゾームといえるわけで、つまりポストモダンという言説がそのままここで通用していて、『動物化するポストモダン』とも通低する部分が・・・。ということは何もここで言葉を尽くす必要もなかろうということで、むしろこの本の中でジスモンチが紹介されていたので、ECMからリリースされている1979年録音、チャーリー・ヘイデン(ba)、ヤン・ガルバレク(ss)、エグベウト・ジスモンチ(gt, pf)のトリオ編成の『Magico』を聴きながら出社したことを報告。いやあ、やはりECMはECM。なんつっても、メンバーだけ見てもECMだとわかる。実はヤン・ガルバレクがいるだけでECMとわかるのだが。そしてもちろん、音を聴いてもいつものあのECMで、金太郎飴的なあのリヴァーブ。北欧の空に向かって投げ出された音をしばし眺め、消え入るのを待つような。このアルバム自体は悪くないし、好きだけれども、流し聴きしていたら多分途中で別のECMのレコードに代わっても気付かないのではないか。たとえば、ジョン・サーマン(sax)、ボボ・ステンソン(pf)、ミロスラフ・ヴィトゥス(ba)、ヨン・クリステンセン(dr)のアルバムとかに。いや、この面子はいまテキトーにでっち上げたのだが、ミロスラフ・ヴィトゥスの『First Meeting』はほとんどこのままじゃないの! ECMの考えることは分かりやすい! とはいえガルバレクのソプラノサックスは、いい悪いは個別の好みとは思うけど、彼だけにしか出せない冷たい空気感と叙情性があって感心する。よく言われるような音色の透明感は確かにそうであるし、しかし意外にエモーショナルに吹いていて、その中での押し付けがましさのなさは秀逸だと思う。まあ今でも相応の評価をされているから、再評価とかそういうこともでないですが。もともとガルバレクはフリージャズ出身なんだよね。『SALT』とか、結構いいアルバム。



・『First Meeting』は特別話題になるような評価はされてないと思うけど、これも結構いいアルバムで僕は好き。ヴィトゥスのアルコとかがなかなか効果的に使われている。ベースのアルコって大体好きになれないことが多くて、というかそれはアルコは全然うまくないのにいきなり自分のリーダーアルバムになると弾きだすジャズベーシストって結構いて、たしかポール・チェンバースとかリチャード・デイヴィスとかそうだったと思うけど(うろ覚え)、このアルバムでのアルコは別にうまいとはいわないまでも開放感があって、それこそECMの空気感ともマッチしてる。あとはケニー・カークランドの粒立ちよいタッチのピアノがとてもよかった記憶がある。とはいえこのアルバムを最後に聞いたのは数年前なので細部まで覚えていてのコメントではないですが。ところで、早くして亡くなったけどケニー・カークランドはいいピアニストだよな。ケニー・ギャレットとかブランフォード・マルサリスとかといい演奏を残していたはず。

・念のため補足すると、ECMはレーベルオーナーでプロデューサーのマンフレット・アイヒャー率いるドイツのジャズレーベル。オスロにスタジオを持っており、僕は一時期までノルウェーのレーベルだと勘違いしていた。極めてレーベルのカラーが強く、音数の少ない、リリカルで緊張感のあるサウンドが特徴で、看板ミュージシャンにヤン・ガルバレク、キース・ジャレットなどがいる。最近は現代音楽のリリースなどもある。ただし、ヤン・ガルバレクといえばECMを連想するが、キース・ジャレットはキース・ジャレットであって、別段ECM以外からリリースされても意外ではない。(ECMのキースへのサポートはすばらしいですよ、念のため。)

・メディアが育まれる生態系をビオトープと表現するのは佐々木氏が初めてではなく、そのままずばり『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする 』(水越 伸著)という本がある。

Friday, January 21, 2011

複製芸術とアウラ

twitterで複製芸術とアウラ、そしてアウラの成立条件についての議論があったので、少し考えたことをメモします。
http://twitter.com/#!/search?q=%23popuon
(坂本龍一に佐々木さんの学生がインタビューしたことが発端のようだ)
議題は:現代において、アウラとは何か?

言うまでもなく、ベンヤミン以前にも絵画の模写や贋作といった複製芸術は存在した。しかしそれらの複製芸術とオリジナルとの間には、何らかの差異が存在する。したがってオリジナルによって得られる体験は、そのオリジナルがもつ時空間を共有する必要がある。そして、人は鑑賞する対象がオリジナルであるという、その事実性の中に、その体験の貴重さがあると感じる。その貴重さの実感こそ、アウラが名指すところのものである。

そのうえで、レコードや写真による表現形態が発生した、ベンヤミンにとっての現代以降、そのオリジナルのオリジナル性が崩壊する。アナログとデジタルとの間に、表現されたものとしての質に断絶があるかどうかは議論があるだろうが、それはまた別の議論であるのでここでは単純に精度の問題であるものとしよう。そうであれば、例えばアナログレコードの表面についた傷によって、そのレコード盤固有のノイズが付着したからと言って、それ固有の体験が発生することは、ここでは問題にはならない。(もちろん恣意的な「聴き方」をすればそのようにとらえることは可能だが、「オリジナル」のアウラを獲得した訳ではない。あり得るとすれば、複製としてのアウラを獲得したのだ。)ともあれ、CDやラジオ、そしてもちろんUSTREAMによって配信される動画がいずれもオリジナルから複製されたデータ(シミュラークル)にすぎないことは自明だ。そして複製されることを前提としてエディットされた作品にはオリジナルは存在しない。そこには少なくともベンヤミンが用いた意味でのアウラは剥離されている。(たしかに教授が指摘する通り、たとえばUSTREAMを見逃したらもう見れない、といった体験の1回性というものもあり、それ自体について検討することも必要だろうが、ここではこれ以上深入りすることはしない。)

しかし、ここでの議論でタイムライン上を流れているメッセージを見るに、ベンヤミンのアウラとは別種の体験の貴重さが、リアリティとして問われているようだ。質問者からは「お金を払う」という行為に重要性を置く見方が表明されたが、ある物や体験に対して対価を払うということは、自分の(労働)時間を支払うということだ。自分の身を削って手に入れた物に対して、より大きなアウラを見る。私がこれだけの時間をあなたに対してかけたのだから、それだけ私のために奉仕してほしい。つまりはナルシシズムだ。そして、恋愛としての音楽。思想地図β vol.1の鼎談(菊地成孔、渋谷慶一郎、佐々木敦)の中で菊地さんが日本での恋愛至上主義を批判していたことが思い出される。

結局月並みな結論しか導きだせていないが、やはり(われわれの)現代において、特にソーシャルネットワークの広がった状況に親しんでいる世代からは、自分の行為が何らかの社会的なリアクションを引き起こすことに、リアリティを感じる感性が強いのだろう。ライブ、特にいわゆる野外フェスなどに多くの若者が集うのも、この連帯のリアリティを求めてのことのはずだ。つまり、自分が好きなアーティストが、多くの他の人に受け入れられていることを感じることの強度。

このような状況のなかで、作品そのものについてのまなざしを鍛えていくこと。その方法は、これからまた考えなければいけないだろうとおもう。


P.S.
ちなみに、若者批判をしているつもりはありません。
あと、所有ということについても検討が必要かもしれない。