Sunday, July 06, 2008

ゲーデル入門

ゲーデルの哲学——不完全性定理と神の存在論


・高橋昌一郎『ゲーデルの哲学——不完全性定理と神の存在論』を読んだ。世に入門書は数多あるが、本書はまさにゲーデルの不完全性定理と彼の哲学に入門するのに最適な良著だ。以下、簡単に本書のメモ。

 ゲーデルの不完全性定理とは、たとえば数学をとりあげたとして、数学の語彙で記述されるにもかかかわらず、数学的に証明することのできない命題が存在するということを示した定理だ(ここで記述可能性と証明可能性が別物であることに注意が必要)。僕の拙い理解で言えば、「この命題は数学的に証明することができない」という命題を、数学的に「記述」することができるということだ。もちろん、この命題を数学的に証明しようとすれば、もとの命題が自己矛盾を起こす。従ってこの命題を数学で証明することはできない訳だが、ゲーデル以前の数学界では、全ての数学的問題は数学によって記述できるであろう、したがって我々はそのような体系を構築せねば成らない、という理念を持っていた。この理念はラッセルとホワイトヘッドの『プリンキア・マテマティカ』に集約される。ところがゲーデルの証明はこの理念に完全に引導を渡してしまったのである。

注意すべきは、数学で表記される体系内に矛盾が入り込む、ということではない。逆に、無矛盾であるシステムには、そのシステムの公理に依っては証明することの不可能な命題が存在する、というのがゲーデルの不完全性定理である。本書での不完全性定理の記述を引いてみよう。

第一不完全性定理:システムSが正常であるとき、Sは不完全である。
第二不完全性定理:システムSが正常であるとき、Sは自己の無矛盾性を証明できない。

ゲーデルはこの不完全性定理から、唯物論は論理的にあり得ないことを導いた。経験や観測などから導かれる自然科学的な認識論では、そのシステム内部で記述できないにもかかわらず、人間に依って確かに認識可能な事象が存在するからである。人間精神は脳神経のシステムに還元はできない。なぜなら人間はその脳システムによって記述可能である領域よりもさらにメタ方向にある論理にたどり着くことができるからである。

・ゲーデルの不完全性定理のポイントは、システム内にそのシステムの文法での証明を拒む特異点が存在するという所だろう。そして現代思想においては、この極点こそが注目されていたところだ。浅田彰のいうクラインの壷や、ラカンの対象aなどが代表例だろう。ある体系において自己言及と、自己否定が絡み合うと、そこにこのようなパラドックスが生じる。例えば、このブログでは嘘だけを書いている。

・と、ゲーデルについて読んだので、以前に買ったまま眠っていたウィトゲンシュタイン『論理哲学論』(論理哲学論考の方が一般的)に挑戦しようかと思っている。まあ読み通せたら上出来か。しかし『論理哲学論』はいろんな出版社から出てるよね。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論』

・そういえばダグラス・ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』も読み止しで放置したままであるなぁ。あれはドゥルーズ『アンチ・オイディプス』と同時に読みはじめて、どちらもまだ読み切っていない。

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